【第14章】邪馬臺國の遷都・邪靡堆「野洲近江王朝」と離宮高穴穂宮」
俀國の都である「邪靡堆」中心王朝の呼称を、新たに「野洲近江王朝」とする。
後世に天智天皇が造営した「近江大津宮」との混同を避ける為である。


邪靡堆は山津
中国史書に於ける邪馬臺國の記録を見ると、西暦266年(泰始2年)に新女王臺與の遣使・掖邪狗
等20人が、西晋に上献後、西暦600
年の王、姓・阿毎、號・阿輩雞彌、字・多利思北狐こと
用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇
登場まで334年間
に渡り、邪馬國に関する記録が空白である。

「倭の五王」時代と言われている西暦421年頃から西暦478年頃の記録はあるのだが、登場する
讃・珍・斎・興・武については不詳。仁徳天皇の弟に莵道稚郎子こと「宇治天皇」が見え、反正天皇の
本名が多遅比瑞歯別と言う。従って、倭の五王とは、俀國(都・邪靡堆)黎明期の国王と推察する。
また「隋書」列傳東夷俀國条の原文『自魏至于齊、梁、代與中國相通(略)』
訳『魏(AD220年)から斎(AD479年〜AD501年)梁(AD502年〜AD556年)に至り(倭国は)
代々中国と相通ず。』と、記載があるので「邪馬
國」及び「邪靡堆」は、約400年間に渡り中国王朝と
友好関係にあったものと判断できる。

また、原文 『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬者也』
訳『俀國の都は邪靡堆にある。「魏志」魏書東夷傳倭人条には邪馬と(記載)がある。』と、明記されている。
即ち、AD600年頃の俀國首都「邪靡堆」にある。AD200年代の「邪馬(母国)は「魏書」東夷傳
倭人条に記載がある。
表記している。

女王俾彌呼の意宇出雲・邪馬臺國は、約400年の間に勢力を拡大させ、「隋書」に登場する「邪靡堆
(やまつ・山津)琵琶湖こと淡海(おうみ)國、後世の近江国に倭国の中心地として遷都した。と言える。
そして、意宇出雲・邪馬臺國から「邪靡堆」までの約400年の間は、倭國に於いては戦争の無い平和な時代
が続いていたものと推察する。
※意宇出雲・邪馬臺國はAD200年代の倭国の都。
※遷都の淡海(近江)国の邪靡堆はAD600年代の都。 
※『邪馬者也』の文字「者」は、副詞であり「之・乎」と同じく意味は無い。

(写真140
(写真141
「躬臣國」こと淡海・近江国
の中心地。「邪靡堆」
中・鶴翼山(八幡山)
左・長命寺山 右・岡山
大津市大津港
琵琶湖南
淡海(おうみ)の近江国

琵琶湖面積670Ku

この「隋書」列傳の「列傳」とは『多くの人の伝記を書き並べた本』であり、撰者の魏徴は西暦627年頃に編纂した
されている。従って、答礼使の文林郎・裴世清や小野妹子から倭国の情報も挿入されていると比定する。
しかし、撰者・魏徴は『邪馬國』の國名記載には「後漢書」を底本とした様に思われる。
答礼使の裴世清が会見した阿毎王、號・阿輩雞彌、字・多利思比狐こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇
や小野妹子は、意宇出雲・邪馬國の一族であり末裔ともいえるので『則魏志所謂邪馬者也』と表記したのだろう。


邪靡堆野洲近江王朝」は、瀬田川、宇治川、賀茂川、淀川、流域も含めての勢力圏と思われる。
現在の大阪・難波から京都(山代・山背国)間の(大道)陸上交通路が開通したのは、AD613年
(推古21年?)と言う。

「新唐書」日本傳の多利思比孤は、用明天皇こと橘豊日天皇・池邊天皇
「新唐書」日本傳の原文『(略)次欽明。欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達、次用明、
亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、
次皇極。(略)』
『(略)次は欽明天皇(AD539年〜571年)。欽明11年は「梁」王朝(AD502年〜AD556年)の
元帝「承聖元年」であるAD552年「直」まで。
次は海(敏)達天皇と次の用明天皇(橘豊日天皇池邊天亦」また多利思比孤」とも「」言う。
「隋開皇末」隋の文帝・開皇20年(西暦600年)「直」から「始與中國通」中国と「通」交流が「始與」まった。
次は崇峻天皇、崇峻天皇死(崩御)す。欽明天皇之孫女雄古こと推古天皇が立(即位)。次は舒明天皇、
次は皇極天皇。(略)』と、明確に西暦600年代の天皇即位を記載している。
従って「隋書」列傳東夷俀國条の記載「開皇20年」こと西暦600年の多利思北孤と「新唐書」日本傳
条「隋開皇末」こと西暦600年の多利思比孤
の登場は、ぴったりと一致する。

即ち、俀國の阿毎王こと多利思は、用明天皇(大兄皇子・橘豊日天皇池邊天皇阿輩雞彌である。

また「日本書紀」によると、用明天皇の即位をAD585年。崩御はAD587年と在位期間は2年間との記載。
中国史書「隋書」「新唐書」との年代を比較すると「日本書紀」には、概ね21年間以上の
空白がある。
著者は「隋書」と「新唐書」そして「三国史記
の年代考証を選択のうえまとめている。

これ等、邪靡堆が俀國の都である根拠は「隋書」列傳東夷俀國条に、次の通り原文に明記されている。

原文『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬者也』
原文『自竹斯國以東、皆附庸於倭』
原文水多陸少 』以小環挂茲+鳥項』
原文『
聞大國惟新之化』
原文『又經十餘國、達於海岸』などが挙げられ同章後条にて説明をしている。

また、現在の京都府・大阪府・奈良県など、近畿地域に古くから鎮座されている
「神社」祭神の殆どが意宇出雲・邪馬國系と高天原系の大神なのである。
資料35を参照。

【琵琶湖周辺の意宇出雲祖神を祭祀する神社】(資料35)

滋賀県 神社名 祭神(意宇出雲系) 鎮座地
琵琶湖東 多賀大社(お多賀さん) 伊邪那岐命・伊邪那美命
滋賀県犬上郡多賀町多賀604
阿自岐神社(西村の宮) 味耜高彦根命迦毛大御神・他 滋賀県犬上郡豊郷町安食西663
桂城神社 少彦名命 滋賀県犬上郡甲良町下之郷487
大嶋神社 大国主命 滋賀県近江八幡市北津田町529
賀茂神社 祖神:味耜高彦根命賀茂別雷命 滋賀県近江八幡市加茂町1691
新神社 大物主大神(須佐之男命) 滋賀県彦根市岡町126
山田神社 猿田彦命 滋賀県彦根市宮田町120
豊満神社 大国主命・他 滋賀県愛知郡愛知川町豊満392
沙沙貴神社(ささき大明j神) 少彦名命・他 滋賀県蒲生郡安土町常樂寺1
琵琶湖南 大笹原神社 須佐之男命・櫛稲田比売命 滋賀県野洲郡野洲町大篠原2375
兵主神社(ひょうずさん) 八千矛神(大国主命) 滋賀県野洲郡中主町5条566
御上神社 天之御影命 滋賀県野洲郡野洲町三上837
勝部神社 天火明命・物部布津主神・他 滋賀県守山市勝部町339
馬路石辺神社 素戔嗚尊・大己貴命 滋賀県守山市吉身町627
高穴穂神社(禅納大明神社) 事代主神・住吉神・他 滋賀県大津市穴太1−3−1
篠津神社(牛頭天王・大梵天王) 須佐之男命(素戔嗚尊 滋賀県大津市中庄1-14-24
長等神社 建速須佐之男大神・大山咋命 滋賀県大津市三井寺町4-1
小椋神社 猿田彦命・他 滋賀県大津市仰木町4737
老杉神社 須佐之男命・稲田姫命・
八王子命
(五十猛命)
滋賀県草津市下笠町1194
伊岐志呂神社 大己貴命(大国主命) 滋賀県草津市片岡町245
大宝神社 須佐之男命・櫛稲田比売命・他 滋賀県栗太郡栗東町綣1004
八坂神社(牛頭天王社・嵯峨大宮社) 須佐之男命(素戔嗚尊・他 滋賀県甲賀郡水口町嵯峨
飯道神社 須佐之男命(素戔嗚尊) 滋賀県甲賀郡信樂町宮町
新宮神社新宮さん) 素戔嗚尊・稲田姫命・大山津見神 滋賀県甲賀郡信樂町長野
大鳥神社 須佐之男命(素戔嗚尊) 滋賀県甲賀郡甲賀町鳥居野782
油日神社 猿田彦命 滋賀県甲賀郡甲賀町油日1042
加茂神社 天津彦火瓊々杵命(邇邇芸能命
天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦)
滋賀県甲賀郡土山町青土1049
琵琶湖北 山津照神社(青木さん) 国常立尊 滋賀県坂田郡近江町能登瀬509
石作神社 天火明命 滋賀県伊香郡木之本町千田
意富布良神社(田神の宮さん) 素戔嗚尊・大穴牟遅命・猿田彦命 滋賀県伊香郡木之本町木之本488
与志漏神社 須佐之男命(素戔嗚尊) 滋賀県伊香郡木之本町古橋1102
上坂神社上坂田宮) 須佐之男命(素戔嗚尊) 滋賀県長浜市東上坂町1302
琵琶湖西 天皇神社 須佐之男命(素戔嗚尊) 滋賀県滋賀郡滋賀町大字和邇中
大荒比古神社・鞆結神社 大己貴命(大国主命) 滋賀県高島郡マキノ町浦627
白鬚神社(明神さん) 猿田彦命 滋賀県高島郡高島町鵜川215
志呂志神社 牛頭天王(素戔鳴尊)・鴨祖神 滋賀県高島郡高島町鴨
田中神社(天王さま) 建速素戔嗚尊・櫛稲田比売命 滋賀県高島郡安曇川町田中字山崎
箕嶋神社 大山積命、亊代主神 滋賀県高島郡安曇川町三尾里
日置神社 素戔鳴尊・稲田姫命
大國主命・日置宿禰
滋賀県高島郡今津町酒波

以上、主な「社」を検索した結果、伊邪那岐命・伊邪那美命、須佐之男命(素戔嗚尊)、櫛稲田比売命
大己貴命(大国主命)少彦名命
猿田彦命、天之御影命、など、そして、迦毛大御神である味耜高彦根命
俀國王
阿輩雞彌(火君)の祖神・天火明命などが都・邪靡堆の近江国琵琶湖岸全域に渡って祭祀されている。
従って、都・邪靡堆の近江国に於いて祭祀されている大半の大神は、意宇出雲・邪馬國の大神でもあり
「隋書」列傳東夷俀國条の原文 『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬者也』に合致する。

【躬臣クオミ國は近江オウミ国】
俀國の都「邪靡堆」は、原名「躬臣國」こと淡海国・近江国であり(写真140・141三上山(近江富士)麓・
野洲川流域(写真142・143・144の滋賀県野洲郡中主町・野洲町・守山市あたりが「野洲近江王朝」の
中心地として繁栄していたものと思う。
躬臣國とは「魏書」東夷傳倭人の条「邪馬臺國」連合30ヵ国名に記載があり、26番目列記登場して
いる後の「近江
国」である。

(写真142) (写真143) (写真144)
三上山(近江富士)麓
大津能登川長浜線
「近江戦国の道」より撮影
(滋賀県道2号線
野洲川の流域
日本最大の湖成三角州
古代名「八洲川」が
「野洲川」に転訛。
「銅鐸博物館」内
弥生時代の復元集落

住所:滋賀県野洲郡
野洲町大字辻町

俀國の阿毎王()多利思比狐こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇・阿輩雞彌阿毎王妃こと
穴太部人皇后そして
聖徳太子の一族は、
現在の滋賀県大津市穴太
(あのう)に離宮「志賀高穴穂宮」
を築造のうえ居住していたものと推定する。
この地の「高穴穂神社」境内(写真145・146)には「志賀高穴穂宮」址の史蹟がある。
(写真147)
実際に「志賀高穴穂宮」址を探訪したのは2004年12月8日のこと。
賀高穴穂宮」址の現在地周辺を見て思ったのだが、その敷地は1町歩(3000坪・約9900u)
にも満た無い形状と思ったが、古代「邪靡堆」時代
に於いては比叡山東部も含めて、広大な敷地
であった様に思われる。その理由は「穴太野添古墳群」一帯を見ると明らかである。

(写真145) (写真146) (写真147)
「高穴穂神社」
別命「禅納大明神社

鎮座地:滋賀県大津市
穴太1−3−1
「高穴穂神社」
祭神
景行天皇・住吉神
事代主神
「志賀高穴穂宮」址
邪靡堆阿毎王
多利思比狐こと用明天皇
離宮

「志高穴穂宮」址から眺める東方向の琵琶湖と三上山・近江富士は絶景である。
阿毎多利思こと用明天皇阿輩雞彌大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇と、阿毎王妃
雞彌こと穴太部人皇后そして
聖徳太子達
は、毎朝の様に三上山(近江富士)から昇る朝日に
向かい参拝していたのだろう・・・。

「隋書」列傳東夷俀國
条の原文には『無城』と、記載がある。
その王宮は「城」の規模では無い。大きな都では無い。との意。
即ち『無城』とは「離宮」もしくは「別荘」的な居城を表記しているのである。
阿毎多利思比孤こと用明天皇大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇)阿輩雞彌阿毎王妃
雞彌こと穴太部人皇后そして
聖徳太子達
は、琵琶湖三上山・近江富士麓の「野洲近江王宮」
にて、政治的職務や祭祀的行事を遂行してから、西対岸の離宮「志賀高穴穂宮」に船を以って
琵琶湖の景観を眺めながら、ゆったりとした流れにて帰宮したのものと思う。

【滋賀県「穴太野添古墳群」の調査】

比叡山系の東麓には多くの古墳群が存在している。穴太野添古墳群に近接した坂本から南滋賀までの約3kmに限っても、北から明良古墳群、日吉古墳群、讃仏堂古墳群、塚穴古墳群、大谷北古墳群、赤塚古墳群、大通寺古墳群などの古墳群がある。

そのなかでも穴太野添古墳群の規模は大きく、南北300m、東西500mの範囲内に約220基以上の古墳があるとされている。しかし、開発によって消滅した古墳も少なからずあったことが報告されている。本古墳群は比叡山系から東に流れる四ツ谷川の形成した扇状地と東西に延びる丘陵の南斜面に築かれている。

古墳群からの眺望はすばらしく、眼下に琵琶湖や近江富士を一望できる
【滋賀県 穴太野添古墳群の調査HPより転載

阿毎多利思比孤阿輩雞彌用明天皇(大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇
阿毎多利思比孤・阿輩雞彌
(アペヒミとは火君であり天火明(アマヒミ)命の末裔と思われ、用明天皇
大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇
と比定する。
同章後記「隋書」列傳東夷俀國条の原文A『王姓阿毎』にて説明している。

この天火明命は、滋賀県守山市勝部町の「勝部神社」祭神として物部布津主神と共に祀られている。
また「石作神社」滋賀県伊香郡木之本町千田に鎮座しており、ここの祭神も天火明命である。
京都府では丹後一の宮「籠神社」と「荒見神社」の祭神に天火明命が祀られている。
大阪府に於いては「玉祖神社」
(たかやす明神)祭神に、天火明命が祀られており、大阪市住吉区
「住吉神社」の祖神である天火明命は、高倉下命・天香語山命と共に
祀られている。

他には、愛知県・尾張国一の宮「真清田神社」と尾張国三の宮「熱田神宮」の祖神に天火明命
祭祀されている。この、天火明命の
亦名を、彦火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命・
天火明櫛玉饒速日尊とも言う。※同章後記【磐船神社】にて説明。
そして、極秘伝によると、天火明命
山代・山城国の賀茂別雷神と異名同神とされている。
阿輩雞彌(火君)須佐之男命の子孫であり、意宇出雲・邪馬國の直系である俀國(都・邪靡堆)
阿毎王・多利思比孤こと用明天皇大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇として即位したものと比定する。

躬臣國」こと、近江・淡海国には「賀高穴穂宮」「近江大津宮」「紫香樂宮」などの王宮が日本古代史に
早くから登場しており、倭国における政治・経済・交通の中心地として、東西・南北の要となっていた。
この、オウミ・近江国の呼称由来は、クオミ・躬臣国からの転訛と判断する。
また、近江国は「大和朝廷」律令国家(中央集権国家)の
母体でもあり、政治的基磐の構築途上にあったと言える。
そして、の首都「邪靡堆」条里制遺構が、滋賀県野洲郡野洲川河口の湖南平野などに見られ、
江州米の産地(写真148)として古代から開けた穀倉地帯でもあった。

(写真148)
の首都「邪靡堆」
滋賀県野洲郡野洲川河口
三上山(近江富士)麓

江州米産の農業地帯

また、この条里制遺構は、滋賀県栗太郡栗東町の野洲川左岸デルタの頭部平地と、滋賀県犬上郡湖岸辺
の平野全域に施されている。
【兵主神社】祭神・武神八千矛神(大国主命)鎮座地・滋賀県野洲郡中主町五條566番地。
「兵主」の名は、中国の八神信仰からの由来。出雲系帰化氏族の始祖祭祀に起源があると言う。
鎮座地が野洲川の肥沃なデルタ地にある事から「農耕神」「生産神」としても祭祀されている。
ここの、地名が中主町大字五条とあり、隣は六条である。「兵主神社」にも条里制遺構の足跡がある。
そして、琵琶湖北「近江米」の産地である滋賀県坂田郡近江町宇賀野にも、この条里制遺構「碇遺跡」
(複合集落遺跡)の第3次発掘調査が滋賀県「近江町教育委員会」より2001年9月1日に報告されている。

この様に、琵琶湖北東から南にかけて国造りが開発され「邪靡堆」は倭國の都「野洲近江王朝」と比定
した所以でもある。


従って首都邪靡堆の条里制遺構は、大和朝廷の国作り以前には、整然と都市整備があったと言える。
この様な政治的革新を具体的に推進しようとした証明の一として「隋書」列傳東夷俀國条に記載がある。
原文『大使聞大國惟新之化』が、該当する。
訳『俀國阿毎裴世清に「大使」遣使・小野妹子から「」曾(かって)聞いたのが「大國」隋国の「惟新」
国政維新「之」の「化」方策を知りたい。』
と、表記がある様に、毎王が隋国に派遣した真の目的は、
隋国の「惟新政策の方法」を模索収集
する事であったと窺える。

当時の山代・山背・山城国こと、京都盆地の鴨川流域北東部には、新羅、高句麗、狗奴國系である
賀茂氏、出雲氏、小野氏、栗田氏、八坂氏、中臣氏などの豪族が大きな勢力をもっていた。

特に、大国主命の子である
阿遅須枳高日子命こと迦毛(カモ)の大御神を祖とする「賀茂御祖神社」
は、
その勢力の大きさを物語っていると言えよう。
阿毎王・用明天皇「邪靡堆」の勢力範囲である領の、山代(山背・山城)国、摂津国、和泉国、
河内国、大和国俀國の政治・経済の中心地として日本国家を構築していた様に思われる。
特に、山代(山城・山背)国とは比叡山を挟んで、血族関係をもっていたものと判断できる。
古代に於いて、山城国の原名は山代國であり、山代國はヤマタイとも読む。
邪馬ヤマタイ國が、山代國ヤマタイ國一帯にも進出した史跡の一つになると思う。

現在の京都府、大阪府、奈良県に、古くから鎮座されている「神社」祭神にも、意宇出雲・邪馬國系
である須佐之男命
素盞嗚尊・牛頭天王、稻田姫尊、大国主命、小彦名命、猿田彦神佐太御子大神
阿遅須枳高日子命(味耜高彦根命こと迦毛大御
。など、殆どの神名が連ねている。
資料36を参照

【京都府・大阪府・奈良県の意宇出雲系神社】(資料36

【京都府】 神社名 祭神(意宇出雲系) 鎮座地
京都市街
北部
賀茂御祖神社(下鴨神社)
出雲井於神社
味耜高彦根命(迦毛大御神)・
素戔嗚
京都市左京区下鴨泉川町59
京都市街
中央部
梛神社(元祇園社・梛ノ宮神社 素戔嗚尊・稲田姫命・他 京都市中京区壬生梛ノ宮18の2
幸神社(出雲路幸神)
(出雲路道祖神社)
猿田彦命・他 京都市上京区幸神町
大将軍八神社 素戔嗚命・他 京都市上京区一条通御前西入西町
京都市
東山区
八坂神社(京都祇園社・牛頭天皇社) 素戔嗚尊・櫛稲田比売命・他 京都市東山区祇園町北側625
地主神社(えんむすびの神)
大国主命・素戔嗚尊・稲田姫命・他 京都市東山区清水1の317
新熊野神社 弉冉命 京都市東山区今熊野椥ノ森町42
粟田神社(粟田天王社) 素戔嗚尊・櫛稲田比売命
大己貴命(大国主命)
京都市東山区粟田鍛冶町1
恵美須神社(京のえびすさん) 八代言代主大神・大国主命・
少彦名命
京都市東山区小松町125
京都市
洛北
岡崎神社(東天王社) 須佐之男命・櫛稲田比売命・他 京都市左京区岡崎東天王町51
須賀神社西天王社) 須佐之男命・櫛稲田比売命・他 京都市左京区聖護院円頓美町1
熊野神社 素戔嗚尊・伊弉冉命・ 京都市左京区聖護院山王町
由岐神社 大己貴命(大国主命)少彦名命 京都市左京区鞍馬本町1073
八大神社 素戔嗚尊・櫛稲田比売命・他 京都市左京区一乗寺松原町1
鷺森神社 素戔嗚尊 京都市左京区修学院宮ノ脇町16
熊野神社 伊邪那岐命・伊邪那美命・
速玉男命
(須佐之男命)
京都市左京区聖護院山王町43
大豊神社 少彦名命・他 京都市左京区鹿ヶ谷宮前町1
賀茂別雷神社(上賀茂神社
山ノ森神
賀茂別雷神素戔嗚尊
京都市北区上賀茂本山町339
大田神社 猿田彦命 京都市北区上賀茂本山町339
今宮神社 大国主命・素戔嗚尊・
櫛稲田比売命・他
京都市北区紫野今宮町21
京都市
洛西・西山
松尾大社 大山咋命・市杵島姫命 京都市西京区嵐山宮町3
京都市洛南 伏見稲荷大社(お稲荷さん) 宇迦之御魂神
佐田(猿田)彦神・他
京都市伏見区深草藪之内町68
藤森神社(藤森さん) 素戔嗚尊・他 京都市伏見区深草鳥居崎町609
南山城地方 十八神社 大物主神(須佐之男命)・他 京都府宇治市菟道滋賀谷
京都府南部 荒見神社 天火明櫛玉饒速日尊(天火明命) 京都府城陽市富野荒見田165
京都府
北西部
丹後
籠神社(丹後一の宮) 彦火明命(天火明命)・他 京都府宮津市大垣
日吉神社 大己貴命(大国主命)大山咋命 京都府宮津市字宮町1408
由良神社 弉諾命・櫛御気野命(須佐之男命) 京都府宮津市由良宮本
一宮神社 大国主命 京都府福知山市堀小字小谷3440
大虫神社 大己貴命(大国主命)・他 京都府与謝郡加悦町温江1821
木積神社 五十猛神・大物主神(須佐之男命) 京都府与謝郡岩滝町弓木408
金刀比羅神社 大物主神(須佐之男命) 京都府中郡峰山町小字奥山
諏訪神社 建御名方神・大物主神(須佐之男命) 京都府北桑田郡美山町鶴ヶ岡宮脇
京都府
中央南部
出雲大神宮 大国主命・三穂津姫命 京都府亀岡市千歳町出雲
鍬山神社 大己貴命(大国主命) 京都府亀岡市上矢田町
【大阪府】
大阪市
南東
杭全神社(祇園社) 須佐之男命(牛頭天王) 大阪市平野区平野宮町2-1
難波八阪神社(難波祇園) 須佐之男・櫛稲田姫命・他 大阪市浪速区元町4の251
今宮戎神社 須佐之男命素戔嗚 大阪市浪速区恵比須西1-6-10
今宮戎神社(えべつさん)  須佐之男命・天照大御神・他 大阪市浪速区恵美須町3の31 
大江神社 須佐之男命・天照大御神・他 大阪市天王寺区夕陽丘町24の1
阿倍王子神社 弉諾命・伊弉冉命・素戔嗚尊・他 大阪市阿倍野区阿倍野元町9の4
生根神社(奥の天神) 少彦名命 大阪市住吉区住吉町2-3
稲荷神社(大阪東伏見稲荷神社) 佐田(猿田)彦大神 大阪市生野区新今里4の13の9
大阪市
北西
露天神社 少彦名命・菅原道真 大阪市北区曽根崎2-5
少彦名神社(神農さん) 少彦名命 大阪市中央区道修町2-16
難波神社 須佐之男・仁徳天皇・他 大阪市中央区博労町2
八阪神社(しもの宮) 素戔嗚尊(須佐之男・他 大阪市大正区三軒家東6の14の12
生根神社(上の天神) 少彦名命・菅原道真 大阪市西城区玉出西2の1の10
八剱神社 速素戔嗚尊・稲田姫命・他 大阪市城東区鴫野東3の31の8
大阪府
豊能
八坂神社
(早苗の森・神田の宮) 
素戔嗚尊(須佐之男命 大阪府池田市神田4の7の1
走落神社 建速素戔嗚尊・天照大神 大阪府豊能郡豊能町木代1556
久佐佐神社
(宿野の大宮)
賀茂別雷神・猿田彦命・
速素戔嗚尊
大阪府豊能郡能勢町宿野274の1
椋橋総社 素戔嗚尊・神功皇后 大阪府豊中市庄本町1-2-4
大阪府
三島
関大明神(関戸明神) 大己貴命(大国主命)・他 大阪府三島郡本町山崎1-6-10
盞嗚尊神社 嗚尊 大阪府高槻市郡家新町
井於神社 素戔嗚尊(須佐之男・他 大阪府茨木市蔵垣内3の5の15 
吹田泉殿神社  建速須佐之男大神 大阪府吹田市西の庄町10
高浜神社(吹田大社)  素戔嗚尊(須佐之男命)・他 大阪府吹田市高浜町5の34
大阪府
北河内
片埜神社 素戔嗚尊(牛頭天王)
櫛稲田姫命・他
大阪府枚方市牧野阪2-21
二ノ宮神社 建速須佐之男命・稲田姫命
大己貴命(大国主命)
大阪府枚方市舟橋元町1の707
門真神社 素戔嗚尊須佐之男命) 大阪府門真市元町17の11
大阪府
中河内
玉祖神社(たかやす明神)  天明玉命(天火明命)
加茂大神(味耜高彦根命
・他   
大阪府八尾市神立町443
許麻神社  素戔嗚尊(須佐之男・高麗王霊神 大阪府八尾市久宝寺5の4の8
大阪府.
南河内
大津神社牛頭天王社) 素戔嗚尊・櫛稲田比売命・他 大阪府羽曳野市高鷲8-1-2
白鳥神社 素戔嗚尊(牛頭天王)・他 大阪府羽曳野市古市1-1-18
杜本神社 素戔嗚尊(牛頭天王)・
経津主命・他
大阪府羽曳野市駒が谷64
錦織神社 素戔嗚尊(牛頭天王)・他 大阪府富田林市甲田町378
国分神社 飛鳥大神・
大国主命・少彦名命
大阪府柏原市国分市場1-6-35
狭山神社    天照大神・素戔嗚尊・稲田姫命 大阪府南河内郡狭山町半田223
大阪府
堺・泉北
開口神社(大寺さん) 素戔嗚尊・生国魂神・他 大阪府堺市甲斐町東2-1-29
大阪府
堺・泉南
岸城神社 須佐之男命素戔嗚尊)・他 大阪府岸和田市岸城町11の30
感田神社 須佐之男大神・天照大神・他 大阪府貝塚市中905
蟻通神社 大名持命(大国主命) 大阪府泉佐野市長滝814
国玉神社 大国魂神(大国主命)賀茂別雷神 大阪府泉南郡岬町深日921
【奈良県】
大神神社(三輪明神) 大物主大神(須佐之男命)
大己貴命
(大国主命)・少彦名命
奈良県桜井市三輪町三輪山
往馬大社 伊古麻都比古神(大国主命)・他 奈良県生駒市壱分町1527-1
漢国神社 大物主大神(須佐之男命
大己貴命(大国主命)・少彦名命
奈良県奈良市漢国町6
夜支布山口神社 素盞嗚尊 奈良県奈良市大柳生町神野308
鴨都波神社
(葛城賀茂神社・下津賀神社)
積羽八重事代主命・下照姫命
建御名方命
奈良県御所市御所51
飽波神社 須佐之男命素盞嗚 奈良県生駒郡安堵町大字東安堵1379
大名持神社 大名持神(大国主命)・少彦名命・他 奈良県吉野郡吉野町河原屋86
桜木神社(桜木さん) 大己貴命(大国主命)・少彦名命 奈良県吉野郡吉野町喜佐谷422
神波多神社 須佐之男命 奈良県山辺郡山添村中峯山310
高鴨阿治須岐託彦根命神社 味耜高彦根命(迦毛大御神) 奈良県南葛城郡葛城村鴨

以上の通り、京都府には賀茂御祖神社、八坂神社、伏見稲荷大社、今宮神社、大田神社、籠神社、
荒見神社、などの祭神
須佐之男命(牛頭天王)と大国主命、味耜高彦根命、猿田彦神。
そして、彦火明命こと天火明命が祀られている。特に、日本海に近い丹波国は出雲文化の影響が強い。

また、大阪府には、今宮戎神社、杭全神社、大津神社、錦織神社、国分神社、少彦名神社、玉祖神社、
などの祭神に、須佐之男命(牛頭天王)と櫛稲田比売命、大国主命、少彦名命。そして、天明玉命こと
天火明命
が祀られている。

奈良県では、大神神社、往馬大社、漢国神社、と聖徳太子創建の「飽波神社」などの祭神に、大物主神
(須佐之男命)や大国主命が
祀られている。

こうした事実から考察すると、古代日本の中心国である畿内は、意宇出雲・邪馬國から遷都の邪靡堆が
AD600年頃迄は統治していたと考えられる。
即ち「
大和朝廷」建立の黎明期に登場する聖徳太子政権の母体は、邪靡堆「野洲近江王朝」と「志賀高穴穂宮」
にあったと言える。

因みに、滋賀県の前方後方墳や京都府・大阪府に見られる超大型墳墓である前方後円墳の原型は、
高句麗族とアイヌ族狗奴国の墳墓型式が融合したものと比定する。

※【第10章】倭人と金印「漢委奴國王」(資料16・17・18)を参照。

そして、大国主命時代頃からの邪馬臺(秦)國勢力は、現在の滋賀県を始め京都府、大阪府、兵庫県、
奈良県、和歌山県、愛知県、長野県、静岡県、神奈川県、群馬県、埼玉県、栃木県、茨城県と、広範囲
に見られる。
【第9章】出雲族の勢力波及範囲図(資料12)大国主命を祭る「神社分布図」を見ると一目瞭然である。

今日でも、大国主命こと
大黒さんを知らない人は少ないと思う。
因みに、戸上駒之助氏は、大黒さんインドのマハ・カラ(迦羅)族の君長と比定している。
迦羅は、西アジアから渡来した種族、タカラ族こと三韓種族・日本民族であろう。と、述べている。
※「地名語源辞典」著・山中襄太 発行所・株式会社「校倉書房」より。

また俀国遣使が「3回」に渡り隋帝へ上朝している。
1回目開皇二十年(AD600年)には、文帝に奉朝の俀国遣使名は不明であり、2回目の大業三年
(AD607年)と、
3回目の大業四年AD608年)煬帝に上朝の遣使名小野妹子と判断する。

「古事記」「日本書紀」には、邪靡堆國(王)阿毎・(字)多利思狐・(號)阿輩雞彌などに関して
の記載が見当たらず、意宇出雲の邪馬國と共に
歴史から抹消した痕跡が窺える。

【原文『其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云』の解釈】
 
「其國書」書で「曰」言う。「日出」東「處」処から「天子」俀王が「書」国書を「日没」西「處」処の
天子」煬帝へ致す「無恙」お変わりありませんか。云云」それから・・・。』との意。


云云」それから・・・。は、本文略の意。
※この条文は日本的漢文に思われる。
この国書の草案および作成者は、の阿毎王・多利思比狐阿輩雞彌こと用明天皇とは考えにくい。

おそらく
上宮聖徳太子の「王師」である帰化人・高句麗僧「慧慈」法師「其國書」をまとめた様に推察する。
因みに、中国では手紙を書く前文に「別来無恙」を記載する。
「別来無恙」とは『お別れしてから、その後はご無事ですか?』との意であり、日本的に言うと『その後、お変わりあり
ませんか?』となる。『無恙』とは一般的には「
平安無事
」の意。※一説に毒虫のツツガムシであるという。

この国書に國王を天子』と記載しているに事に驚いた。何故?隋国の煬帝と対等の天子』と表記したのだろうか。
この理由を考えてみたのだが、國の都・邪馬堆は新羅国系そして狗奴國系の王族でもあり邪馬國の直系である。
従って、反新羅国である高句麗・百済国系の勢力によって、この邪靡堆
野洲近江王朝」の転覆を図ろうとした感じもする。
その根拠は
国書に『天子』の漢文字を、意図的に記載させた様に思われるからである。
もし、この国書に策略をした者と考えられるのは、反新羅国系勢力の高僧か高官であろう。
当時の國には、百済系勢力が大和国と密接な友好関係をもっており、大和国は
邪靡堆の政権奪取を画策していた
様に窺われる。國王は『我夷人と、自認しているので、漢文字の意を深くは理解できないのである。

また、中国大陸と朝鮮半島に於いては、緊迫した国際情勢であった事は周知の通りである。
西暦612年に隋国の煬帝は、200万人の大軍を送って、高句麗国の遼東城(現在の中国遼寧省遼陽付近)
を包囲したが失敗する。4度目の出兵を計画するが隋国内乱後に
煬帝は自滅している。

次の唐国も、高句麗国に対して3度の出兵を行い、不成功であったが
新羅国と連合軍を組み、先に百済
滅亡させから、高句麗
に4度目の攻撃で遂に滅亡させた。
また、朝鮮半島に於ける日本の拠点であったという
任那国も瓦解している。
百済大和朝廷にとっては、憎き新羅国であり、その新羅国系である
邪靡堆「野洲近江王朝」の血
を引く物部一族が、
百済大和朝廷の蘇我一族に滅亡させられている事から考えても、この陰謀は有
り得ると思う。

この激動戦乱期に、聖徳太子の母である阿毎王・用明天皇橘豊日天皇・池邊天皇)の妃雞彌こと
穴太部人皇后
は、故郷と言われている丹後国大浜の里こと現在の後ケ浜に、数年間、疎開滞在した
という。

国書を見た煬帝が、不愉快に思ったのは、条文に記載されていた「天子」の二文字と判断できる。
煬帝は、この国書に対して『蛮夷書は、無礼で有り、もう二度とは見たく無い!。』と、激怒したと言う。
ここでは、国書を「蛮夷書」と呼び、煬帝の逆鱗に触れた様子が記載されている。

これ等の理由は【第2章】《天子は不動の北極星》にて説明したが、その箇所を再記する。
『天子とは、不動の北極星を意味しており、広大な宇宙には一極しか存在しない。
古代中国の星図を見ると「帝星」というものがあり、北の空にあってほとんど動かないとされていた。
天子とは一極であり、天子の宮殿を意味する「臺」のことも一極なのである。
それを遥か彼方の蛮族國の一つ、東夷・倭國の邑(都)である邪馬臺國などに「臺」の漢文字を以って
記載することはまずあり得ないと思う。

まして「東夷傳」条文に、魏帝こと「因詣臺」を意味する「臺」の漢文字を、族國の王には表記しないと
考える。古代中国の皇帝を「天子」と称しており、
東夷俀王が「天子」と自称した事、煬帝を
不愉快にさせた要因と思われる。
余談だが北極星は、太陽の46倍の直径を持つ巨星である事が、アメリカ海軍試作光学干渉計により直接
計測した結果、判明している。

しかし、煬帝は対高句麗討伐を控えていた事もあり、
一旦は答礼使である文林郎(官名)裴世清たちを
の都・
邪靡堆に送りこんで来たのである。

だから、
邪靡堆に到着した答礼使の裴世清たちを「野洲近江王朝」は、10日間「境内」邪靡堆内
滞留させ、更に「郊外」にて「慰労」させてから会談を行っている。
※同章後記
「隋書」列傳東夷俀國条原文の解釈。原文MNOPにて説明。

山津照神社
琵琶湖北
の「山津照神社(写真149)境内に、息長宿彌王(神功皇后の父)の墳墓と思われる前方
後円墳がある。所在地は滋賀県近江町能登瀬390番地。
(写真150)
「山津照神社」の社名由来は、邪靡堆ヤマツ山津)と天照大神のテル(照)の両方を融合したものと
推察する。やはり「山津照神社」は、意宇出雲・邪馬國と高天原系の「社」(やしろ)であり、息長
宿彌王
は、意宇出雲・邪馬國の血を引く王族と思われる。

(写真149) (写真150)
「山津照神社
琵琶湖北
鎮座地:滋賀県
近江町能登瀬390
「山津照神社古墳」
全長63m前方後円墳
明治15年発掘
息長宿彌王の墳墓

古保利古墳群
息長宿彌王は、AD3世紀後半からAD6世紀にかけて皇后を送り出し、政治に大きな影響力を
もった豪族とされ、意宇出雲・
邪馬國の末裔と思われる。

また、琵琶湖北の「古保利古墳群」(写真151・152には、前方後方墳と前方後円墳の16基を含め
132基が並んでいる。
中でも「小松古墳」は全長60mの墳墓であり、日本最古級(AD3世紀中頃)の築造と推定されている。

(写真151) (写真152)
琵琶湖北高月町
西野山尾根の
「古保利
古墳郡」
と水田
「古保利古墳郡」
前方後方(円)墳
が11基
含む総数約130基がある

器や刀剣等の持ち運びは自由に移動できるのだが、墳墓の移動は至難である。
即ち、墳墓築造の地とは、国王や地域豪族の終焉地と判断できる。
前方後方墳とは、
高天原・邪馬
の四隅突出型方墳と同様に特異な墳墓であり現在の島根県・
鳥取県そして京都府と琵琶湖北・東岸地域に特出している。
別表(資料37)を参照。

【滋賀県琵琶湖周辺の前方後方墳の表】(資料37)

名称(前方後方墳) 別名称 滋賀県(所在地) 全長
注釈
大森古墳・2段構築 山畑1号墳 伊香郡高月町松尾(湖北) 62

小松古墳・2段構築

古保利103号墳 伊香郡高月町西野(湖北) 60

臼ヶ谷古墳

古保利D2号墳 伊香郡高月町西野(湖北) 28
大浦古墳・ばち形 古保利C16号墳 伊香郡高月町西野(湖北) 39
岩屋古墳・ばち形 古保利E5号墳 伊香郡高月町熊野(湖北) 25
熊野山古墳 古保利E9号墳 伊香郡高月町熊野(湖北) 27 余呉川

屋ヶ谷古墳

古保利E14号墳 伊香郡高月町熊野(湖北) 27
馬上山古墳 伊香郡高月町馬上(湖北) 38
長浜茶臼山古墳 長浜市東上坂町(湖北 92 息長陵付近
10

浅小井古墳

高木SX01号墳 近江八幡市浅小井町(湖東) 39 山田川
11

冨波古墳

野洲郡野洲町冨波亀塚(湖南) 42 大岩山古墳群附近より
銅鐸24個出土。
12 灰塚山1号墳・2段構築 栗東市灰塚山(湖南 58 紫香樂宮趾付近
13

辻古墳

栗東市辻(湖南 40 紫香樂宮趾付近
14

皇子山古墳・2段構築

皇子山1号墳 大津市錦織1丁目(湖西) 60 近江大津宮錦織遺跡付近
銅鐸博物館
弥生時代の銅鐸が琵琶湖南の野洲川流域中主町・守山市から合計34個出土している。
その内、野州町小篠原大岩山(三上山左側)からは24個の出土があり、その中の1個は日本一の
大きさを誇る巨大な銅鐸であり、最大の高さ134.7Cm。重さ45.47Kgである。(写真153・154)
最初の出土は明治14年(1881年の14個。次の昭和37年1962年には10個が出土している。
(写真153) (写真154)
「銅鐸博物館」
入口の銅鐸模型
住所:滋賀県野洲郡
野洲町大字辻町57−1
「銅鐸博物館」
後方200mの
大岩山
弥生時代の
銅鐸出土
【御上神社】
琵琶湖南の滋賀県野洲郡野洲町・中主町一帯の三上山麓「御上神社」の祭神は「天御影命」
(あめノみかげノみことである。(写真155・156)
天御影命とは、天照大神(俾彌呼)と須佐之男命の孫であり、別名・天目一箇神(あめノひとつノかみ)
忌火神(いみびノかみ)・二火一水(にかいっすい)神とも言う。

即ち「御上神社」祭神・天御影命は、意宇出雲・邪馬と鳥取県伯耆国こと百支國・高天原の大神。
(写真155) (写真156)
「御上神社」
鎮座地
滋賀県野洲市三上838
「御上神社」
祭神
天御影命
この様に琵琶湖東南部には、前方後方墳銅鐸の出土そして賀高穴穂宮」址などの物的史実が
存在している。
そして「三上山」こと近江富士」またの呼称「御上山・三神山・御影山・百足山」は、神霊山として崇めら
れている。
霊峰御神体としている風習は、意宇出雲国・邪馬臺國の茶臼山鳥取県伯耆国百支國)高天原の
最高峰伯耆大山
と大和国
三輪山そして信濃国「諏訪神社」守屋山などの風習と同様である。
また「磐船神社」(大阪府交野市私市)も「神奈備」の様式をとってお
哮ヶ峰全体が御神体とされている。
巨石は、天から神が降臨される磐座(いわくら)であり、太古からの信仰があった聖域であった。
特に、狗奴国のアイヌ系民族は、山岳を神山とするなど、
自然体を神として崇拝している。
この風習伝承
は、倭国全土の殆どに見られ枚挙に暇がない。
琵琶湖東南部の三上山麓にも「御上神社」を
鎮座させており、國の都・邪靡堆は、中心地としての条件
に合致する。
邪靡堆
歴史的史実は、意宇出雲・邪馬臺國の歴史的史実とよく似ている。

白鬚神社
近江国最古大社「白鬚神社」
が、琵琶湖西の滋賀県高島郡高島町鵜川215に鎮座。
祭神は猿田彦大神であり、意宇出雲国「佐太神社」正中殿の御祭神佐太大神と同一の大神である。

本殿と拝殿は、国道161号を挟んで大鳥居の向かい側に建立。
古くから「近江の厳島」また「白鬚さん」と呼ばれていたので、新羅国系意宇出雲国人の居住地であった
様に思う。
(写真157・158)
(写真157)
写真158
「白鬚神社」
湖面の大鳥居
近江国最古の大社
「白鬚神社」
別名「比良明神」
祭神:猿田彦命
安曇川】
「白鬚神社」の北方10Kmには安曇(あど)川がある。
(写真159)
安曇には琵琶湖特有と言われる「鮎
」の産卵・溯上で有名。
また
アユの梁漁は湖西の風物詩の一つである。
琵琶湖(淡海)北の鮎は、
小ぶりであり体長が3〜5Cm位にしか成長しないので「稚鮎」と呼ばれている。
(まれに10Cm位のも捕れる)。何故、大きく成らないのかを滋賀県高島郡「海津漁業組合」に尋ねると
『鮎に聴いて欲しい。』と、笑いながら「海津漁業組合」のオジサンが語ってくれる。
(写真159)
安曇川
大陸系渡来人
安曇族の拠点
冬季における琵琶湖水は凍らないので冷水・暖水の両魚族が棲息している。
「隋書」列傳東夷俀國条の原文『気候温暖、草木冬青、土地膏腴、(略)』と、記載があり、琵琶湖南では
降雪が少なく『年に雪が降るのは、2〜3回くらいかな?
』と、地元人は言う。

従って、國の都である 「邪靡堆」は琵琶湖南の風土に合致する。

【多賀大社】
琵琶湖東の滋賀県犬上郡彦根市多賀町に「多賀大社」が鎮座地しており、
祭神は日本国土と大八洲
創造の大祖神である伊邪那岐命と伊邪那岐命である。
(写真160)「古事記」には『伊邪那岐神は淡海
(おうみ)の多賀になも坐ます』と、記載がある。
「多賀大社」の創建も
意宇出雲・邪馬國と邪靡堆「野洲近江王朝」との密接な繋がりがあったの
だろう。何故なら、祭神が、伊邪那岐大神と伊邪那美大神であるから。
この両大神を祀る大社(おおやしろ)は、祖国・意宇出雲国の大社に優るとも劣らない歴史と規模を思わせる。
(写真160
「多賀大社」
主祭神
伊邪那岐命・伊邪那美命

鎮座地:滋賀県犬上郡多賀町
意宇出雲国では、伊邪那岐大神「眞名井大社」に鎮座。伊邪那美大神は「神魂大社」に鎮座。と、
創建当時は夫婦仲良く一緒に祭祀されていたのに、後世になってから分割鎮座させられている。

兵庫県津名郡一宮町多賀にも多賀大社」が鎮座しており、祭神は伊奘諾大神と伊奘冉大神である。

兵庫県とは
「魏書」東夷傳倭人条の「邪馬臺國」連合30ヵ国名に記載がある27番目列記登場している
「邑利
(ハリ)國」であり、中世では「播磨
(ハリマ)国」となっている。邑利國こと播磨国の兵庫県に於ける
神社総数は、
4201を数え全国2番目の国(県)と言える。「播磨国風土記」に登場の阿菩大神
祀る「伊佐賀神社」も意宇出雲国の大神である事から考えると【第9章】掲載の
出雲族の勢力波及
範囲図
資料12
の大国主命を祭る「神社分布図」憑性が高い。
祭神の伊邪那岐大神と伊邪那美大神は「古事記」で言う天津神とされているのに何故?国津神を祀る
「社」(やしろの祭神となっているのか腑に落ちない。
「古事記」編纂の太安萬侶は「社禝」の意を認識していなかったのだろうか?。※【第6章】社禝を参照。

「多賀大社」の「多賀」は「田可・田何・田鹿」とも称され、意宇出雲・高天原の「高」タカ「多加比社・
鷹日神社」のタカからの転訛と思われる。「多加比・鷹日」は『高日』であろう。
この「高日」は已百支國こと鳥取県伯耆国
の高天原の最高峰・伯耆大山こと、別名・
伯耆大神岳また火神岳
(ほのかみノたけ)を称するものと思われる。
伯耆大神岳また火神岳よりの「高日」
写真161・162を見ると、正に霊峰神山を彷彿させる。
【第13章】「高木神」写真13-1を参照。
写真161
伯耆大山」の“日の出”

天之御中主神とは中国地方の最高峰・伯耆大山と思われる。
写真撮影:近藤みずほ
写真162
伯耆大山の朝陽
伯耆大山」高天原の霊山
別名・伯耆大神岳また火神岳(
ほのかみノたけ)。
写真撮影:近藤みずほ

また、中国地方の最高峰・伯耆大山を「天之御中主神」と崇拝したのであろう。
(写真163)は、鳥取県伯耆国の中央・伯耆大山。 左・豪円山。右・高麗山(別名:孝霊山・瓦山)である。
この
伯耆大山の形状と(写真164の琵琶湖東部の八幡山の形状がよく似ている。
八幡山(272m)の北西方向約2Kmに「天之御中主尊神社」が鎮座している。

写真163 (写真164)
中央・伯耆大山
左・豪円山
右・高麗山こと孝霊山・韓(瓦)
琵琶湖近江八幡方面
野洲郡中主町

撮影地:ビワコマイアミランド
(伯耆大山と同形 )

近隣地名にも「高宮」の地名がある。やはり「多賀大社」は意宇出雲高天原系の「大社」と判断できる。

【意富等大公王(男大迹尊)は邪靡堆王族
「意富布良神社」の祭神は建速須佐之男命大穴牟遅命。猿田彦命。鎮座地は滋賀県伊香郡木之本町木之本
「意富布良神社」裏山の「大洞山」は霊峰であり、山中の三社は「王布良天王」「牛頭天王」とも呼ばれた。
この「意富布良神社」には意宇(意富)国が見える。
「古事記」に登場する継体天皇(近江国出身)の原名も意富等大公王(男大迹尊)と称され「意富」の
名が付いていることから考えると、継体天皇も
息長宿彌王と共に、意宇出雲・邪馬臺國の末裔であり
邪靡堆」王族と推定する。
継体天皇の父系・息長氏は、近江国琵琶湖北の豪族である。母系・三尾氏の振媛(ふるひめ)は、琵琶湖
西杣山の豪族とされている。
以上の事由から考えると、当時の淡海(近江)國
邪靡堆の勢力が相当に強大であった事が窺える。

即ち、須佐之男命〜大国主命〜味耜高彦根命(賀茂大御神)〜息長宿彌王〜肩野物部氏〜意富等大公王
(継体天皇)〜物部守屋多利思比狐(大兄皇子用明天皇・橘豊日天皇・池邊天皇〜聖徳太子。と、
大雑把であるが、概ね繋がっている。

邪靡堆のたたら鉄】
琵琶湖北東部己高山(こだかみやま)麓の地名・古橋にたたら製鉄の遺跡がある。
東浅井郡浅井町には野鍛冶の「鍛冶屋」。西浅井町には「八田部」の地名がある。

岐阜県境の「金糞山」
(かなくそやま)タラ特有の名称であり、地域の人は『ここ等では、鉄鉱石の
マンガンが採掘され、槍や刀を造っていた。などの伝承がある。』と語り、『古代の野洲川からも砂鉄
が採取出来た。』とも言う。
古代に於ける、たたら鉄の生産技術が、出雲国こと秦国と邪靡堆には密接な繋がりがあったものと
推定する。

【小野妹子】
原文『大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。
(略)其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。』
と、記載がある。この「其國書」
俀国の書簡は、大業三年(AD607年)(姓)阿毎(字)多利思北狐
(號
)阿輩雞彌
こと用明天皇大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天が、2回目の遣隋使として、
小野妹子を
朝貢させた時の事である。AD607年とAD608年の遣隋使は、小野妹子(隋国名・蘇因高)に比定する。
使の小野妹子は、近江国滋賀郡滋賀町小野村出身であり、小野妹子の墓は大阪府南河内郡磯長村
(写真183・184)と滋賀県志賀郡志賀町小野水明の2箇所にある。

(写真165)
(写真166)
「小野神社」
小野妹子の出生地
篁神社」祭神:小野篁

「小野神社」
祭神
小野妹子と小野毛人命

「小野神社」の祭神は小野妹子と、息子の小野毛人命であり、小野毛人命(天武朝の刑部大卿)の
「毛人」は狗奴國系の名前と思われる。
鎮座地は滋賀県滋賀郡志賀町小野1961
(写真165・166 ) 「日本書紀」によると小野一族は、
大和和邇(やまとわに)の祖とも表記されている。
大和朝廷成立以前小野一族は邪靡堆の淡海・近江国の地において、現在の大阪府・京都府・
奈良県・三重県・愛知県・滋賀県と、広大な地域を統治していた王族である。
即ち、小野一族も意宇出雲の邪馬の末裔と判断できる。

「崇道神社」は京都市左京区上高野西明寺山町34に鎮座しており、合祀された「小野神社」
「出雲高野神社」「伊多太神社」の三社中に「小野神社」がある。
祭神は小野妹子と毛人
(えみし)の父子である。
毛人の墓から1613年に「金銅小野毛人墓誌」(国宝)が出土しており、墓誌の表裏に48文字の記載
がある。
この「金銅小野毛人墓誌」は小野毛人の子息・毛野
(けぬ)の追納とされている。

また、
小野一族の小野篁( AD802〜AD852)は、平安時代の漢詩人・歌人。宰相・相公など
称されたが、隠岐国に一度、流刑されている。
因みに、小野一族の後裔である世界3大美女の一人、
小野小町は、AD 809年出羽の国・福富の荘桐の木田(現在の秋田県雄勝郡雄勝町横小野字桐木田)
に誕生している。やはり、小野小町も意宇出雲・邪馬臺國系の絶世の美女だったのだろう。
「小野小町墓」が伯耆大山の西麓(鳥取県西伯郡岸本町小町)の小山にひっそりと佇んでおり、
小町は真東の伯耆大山から昇る朝日に対して、毎日、拝んでいるかのようだ。

魏略』 (逸文7)「魏書」東夷傳倭人条・裴松之注

原文魏略曰・其俗不知正歳四節、但計春耕秋収、爲年紀』の解釈。
訳『「魏略」いわく「其俗」その人(倭人)は「正歳」中国・陰暦法の正月など「四節」四季節気を
不知」知らない。
『但計春耕秋収為年紀』は「ただ、春に耕作を始め(種を蒔き)秋に収穫を終(畢)わらせるだけで
一年としての計算をする。」との意である。
要するに、倭・委・夷人は、太陽・月などを以って暦とし、大雑把な生活している。との表記である。
この注釈条を、裴松之『魏略』から引用している事が解る。

この原文を『倭人は年齢計算を、春と秋の一年に2歳ずつ数える。』など、解釈をしている「書」を
見かけるが、間違っても『1年に、2歳づつ歳をとる。』などの解釈とは有り得ない。

「隋書」列傳東夷俀國条の書頭原文にも『夷人不知里数、但計以日(略)』と、ある。
訳『夷・委・倭人は里数(距離)の計算が出来なく日(天数)で計算する。』との記載もある。

当時の夷・委・倭人は、
生活の時間や距離などについては天体・日時計的なもの見て過ごしており、
のんびりと、ゆったりとした流れの中で生活
していたのである。

「隋書」列傳 東夷俀國の条原文の解釈
原文@『夷人不知里數、但計以日。』
文A『王姓阿毎』
原文B
名太子爲利歌彌多弗利。

原文C無城郭。
原文D一伊尼翼 』
原文E男女多黥臂點面文身
原文F氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少 』

原文G以小環挂鸕〔茲+鳥〕項、令入水捕魚、日得百餘頭。』
原文H『又至竹斯國、又東至秦王國』
原文I『其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。
原文J
『又經十餘國、達於海岸
。自竹斯國以東、皆附庸於倭。』
原文K『倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。』
原文L『後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。
原文M既至彼都、其王與清相見
原文N『我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。』
原文O『今故清道飾館
以待
原文P
大使聞大國惟新之化。』
原文Q『皇帝徳並二儀、澤流四海、
原文R既而引清就館。其後清遣人謂其王曰
原文S於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
@〜Pまでの記載は
狗奴國系意宇出雲の邪馬國と邪靡堆「野洲近江王朝」賀高穴穂宮」など、国の形状や風俗・
慣習を表記している


「隋書」列傳東夷俀國条の原文@〜S までの解説】
原文@『夷人不知里數、但計以日。』

訳@
前文にて説明の通り、倭・委・人は、太陽(月星)などを見て暦としていた事が記載されている。
当時の暮らしが、現代の私達にとっては羨ましくさえ思う。


この原文『夷人不知里數、但計以日。』と『其俗不知正歳四節、但計春耕秋収、爲年紀を以って「一年二倍暦」
なる解釈の史書を見かけるが、一度身近な中国人に、この条文を解釈して貰うと一目瞭然に答えが解る。

原文A『王姓阿毎
開皇二十年、王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。
(中略)名太子爲利歌彌多弗利(略)

訳A「開皇二十年」西暦600年に、俀王姓は阿毎(アマ・天・海人)、字(あざな)は多利思北(比)孤
こと用明天皇大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇)、號(号)は阿輩雞彌の俀國外交
官が隋文帝に参拝する。
ここで、國王の姓阿毎・字は多利思北(比)孤が登場するのだが
『新唐書』日本傳条文に多利思北(比)孤」が歴代天皇即位の中に記載明記されている。

文『次欽明。欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達、次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、
始與中國通。次崇峻。崇峻死。欽明之孫女雄古立。次舒明、皇極。其俗椎髻
無冠帯(略)』

訳『次は欽明。欽明の十一年は、梁の承聖元年(西暦552年)にあたる。次は海達(敏達)、
次は
用明亦」また「目多利思比孤」とも「曰」言う。隋の開皇末(西暦600年)から、始めて中国に通じた。
次は崇峻。崇峻死に、欽明の孫女雄古(推古)立つ。次は舒明、次は皇極。その俗、推髷、冠帯なし(略)

以上の通り「用明天皇」
亦の名は多利思比孤と、明確に記載がある。
従って、聖徳太子の父王は、多利思比孤こと
王の阿毎・號は阿輩
であり用明天皇となる。

用明天皇は
欽明天皇の第四皇子。兄・敏達天皇の死に伴い蘇我馬子の権力で即位した。
異母妹の穴穂部皇女こと阿毎王妃雞彌・穴太部人皇后との間に男子を四人もうる。
その中の一人が厩戸皇子(聖徳太子)とされている。

用明天皇こと阿毎王・字多利思北孤・號阿輩は、仏法を信じ、かつ神道を尊んだ信仰心の厚い天皇と言われ
ていた。御名・異称は橘豊日尊(たちばなノとよひ)と言う。

『新唐書』は、AD
1060年・宋代の正史であり、本紀10巻・志50巻・表15巻・列伝150巻合計225巻
から成立している。
「本紀・志・表」は欧陽修(AD1007年生〜AD1072年没)等が奉勅斤。
「列伝」150巻は宋祁(そうき)(AD998年生〜AD1061年没)斤述した。
この 『新唐書』は、唐代の正史であり「旧唐書」の欠を補修したもので単に唐書(とうじょ)とも呼ぶ。
※「宋史」巻491列傳第250外國七日本國条文『倭王姓阿毎、名自多利思比孤』と記載がある。
また「翰苑」(唐・張楚金撰。雍公叡注)原文『今案、其王姓阿毎、其國号為
阿輩雞彌、華言天児也(略)』
訳『現在の考察は其の王の姓は阿毎、其の國号は
阿輩雞彌あり中華言う「天児」天子である。』と記載

原文B『名太子爲利歌彌多弗利。』聖徳太子の登場
この条文では、阿毎王・阿輩雞彌・多利思比孤こと用明天皇(大兄皇子・橘豊日天皇池邊天皇
子こと太子が登場。太子とは
聖徳太子を表記している。

訳B「名」名前は「太子」聖徳太子の「利歌彌多弗利
は、仏教専門用語と思われる。
利歌白蓮華こと「分陀利迦」(プンダリーカ)の『利迦』。「彌多」は「冨樓彌多羅尼子」の『彌多』。
」はブッタの『佛』。
利」は「仏舎」の『利』と推定する

因みに、在日中国人の陳氏に、この『利歌彌多弗利を、見せ読をお願いする。
陳氏は、暫く考え『解った!これ、人の名前です。きっと、少数民族の名前です。』と、答えてくてた。
解釈の「少数民族」とは、当時の中華・華夏からみた外夷の蛮族を指しており、ぼんやりと利歌彌多弗利』
見えてきた感じであ
『利歌彌多弗利』は梵語のように思われる。

聖徳太子は、日本国に於ける仏教伝播の先駆者とも言えるので、太子は字(あざな)を仏教名「利歌彌多弗利」
(リカみだふつり)
名付けたのではと推察する。

原文C無城郭
訳C
『(その王宮は)大きな都では無い・
「城」の規模では無い。』との意。同章書頭【躬臣(クオミ)
は近江(オウミ)国】にて説明ずみ。

この原文も「城郭が無い」と訳している書を見かける。「城郭」が無かったら人が住めないのである。
「無城郭」とは「離宮」を意味していると判断する。
即ち「志賀高穴穂宮」を言う。ここで、阿毎・阿輩雞彌こと用明天皇(大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇)
阿毎王妃の雞彌こと穴太部人皇后そして聖徳太子達
が暮していたものと比定する。

「日本書紀」には、用明2年(AD587年)4月に
用明天皇薨去。と、記載があるが「日本書紀」の年代考証
には矛盾が多く、特にAD600年前についての記載には信憑性が薄い。
その理由の第一に、歴代天皇の即位記録に、
國の阿毎王・字多利思北孤、號阿輩が削除されている
のである。
「隋書」列傳東夷俀國の条には「開皇二十年」西暦600年に、俀王姓阿毎・字多利思北(比)孤こと
用明天皇・號阿輩雞彌の外交官が隋文帝に参拝した記録があるのに
「日本書紀」には、この多利思比孤こと
用明天皇大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇
)がAD587年に薨去(崩御)しているのである。

従って、少なくみても13年間以上の削除年代を、何とかやり繰りして、新たに年代創作した様に窺える。
当然、ここでは十数年の食い違いが発生しているために
、多利思比孤こと用明天皇の寿命を操作した様に思う。

その第2には「用明天皇薨去」とあり「薨去」とは、天皇の親族逝去に用いる漢文字である。
中国に於いては「諸侯」の逝去時に表記する。
天皇の逝去時には「崩御」の漢文字を以って表記をする事が正規なのである。
やはり、
國の阿毎王・字多利思北孤、號阿輩意宇出雲・邪馬國の系統である
邪靡堆「野洲近江王朝」
の天皇であるが故に、歴史改竄を図り抹消したのだろう。

その第3には、
阿毎多利思比孤・阿輩雞彌こと用明天皇橘豊日天皇・池邊天皇)が、最初
遣隋使を文帝に派遣したのは、西暦600年(開皇20年)なのに「日本書紀」では、西暦607年(大業3年)
煬帝へ遣隋使を上朝させた
最初と表記している。
ここでも、
阿毎阿輩雞彌・多利思比孤こと用明天皇橘豊日天皇・池邊天皇)による最初の遣隋使
記録が削除されている。

その他にも、矛盾点を挙げる事が多いのだが、枚挙に暇が無いので割愛する。
従って、真の日本古代史を解明するには、中国古代書を基本とする方が正しいものと判断した。

原文D一伊尼翼 』
『有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。

十伊尼翼屬一軍尼
(略)
訳D一軍尼(クニ)は120人、ゆえに中国の主宰と同制度。80戸(人民)に一伊尼翼イナギ(12人の
戦士の事。一稲城とも言う。)を以って「」防備する。今の里長の如し。
十伊尼翼(10稲城×12人)
一軍尼こと120人の戦士に屬する。
との意。


因みに、北海道釧路地区のアイヌ民族に伝承されている古式ツルギの舞
伊尼翼(イナギ)の踊である。
一伊尼翼12人の戦士が相対して、合計24戦士の後ろには女性が一人づつ付き、勇壮な掛け声と共に舞う。
この、アイヌ民族12人戦士の編隊「隋書」列傳東夷俀國条に表記の一伊尼翼は同一のものであり、戦士
編隊の形体を指している。

原文E男女多黥臂點面文身
   『男女多黥臂點面文身、没水捕魚。無文字(略)
訳E『「男女」人々の多くは「臂」肩から手首までの部分に「黥」刺青「面」にも「文身」入墨を彫っている。
水に没して捕らえる。文字は無い(略)』

※南洋系奄美大島の女性は、現在でも手の甲に刺青を彫っていると聞く。また、アイヌ民族にも明治時代
頃まで、女性は口の周りに入墨を入れていた。そして、アイヌ民族には明確な文字の記録が見えず、
詞曲(ユーカラ
)ユーカルなる伝承文化を以って子孫に残してきている。
詞曲(ユーカラ)について、知里真志保文学博士(東京帝国大学文学部言語学科卒業。同大学院博士
課程修了)は、『「ユカル」「ユーカル」までは許せるが「ユーカラ」は樺太方言で「歌」の意味。と説明している。

原文F氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少 』
訳F『「氣候温暖氣候は温暖であり「草木冬青」草木は冬でも青い。
「土地」地形は
「膏腴」女性の体線のように豊かで高い山並みであり「水多陸少」水(湖水)が多く陸地が
少ない』と、琵琶湖周囲の山並と、淡海・近江国こと滋賀県の地形を説明している。
写真167・168)
琵琶湖西・北地域は、日本海気候の影響を受け冬の降雪が多いが、湖南地域に於いては、瀬戸内海気候
と同様に、冬の降雪は年に2〜3回と少ない。従って、原文Fは、琵琶湖南地域の風土を説明している。

(写真167)
(写真168)
琵琶湖西北方面
撮影地
琵琶湖大橋より
琵琶湖西北方面
撮影地
湖西和邇浜より

原文G『以小環挂鸕茲+鳥項、令入水捕魚、日得百餘頭。』
訳G『「以小環挂鸕茲+鳥項」は「茲+鳥鵜の「項」首に「小環」小さな首輪を繋ぎ「入水」近隣の
京都市大堰川こと葛野川・桂川・宇治川に命令すると魚」鮎を「捕」呑み込み
日得百餘頭」一日に
100匹余得る。』
と、鵜飼い漁法を説明している。
※「鵜飼の浜」の地名がJR山陰本線「保津峡」桂川上流(西京都)に存続しており桂川上流に於いての
鵜飼いの歴史はかなり古い様に思われる。
この辺りは
「隋書」列傳東夷俀國条で言う、野洲近江王朝「
靡堆山津の倭・委・の生活・風俗
を表記している。
湖北
には「さで漁」と呼ばれている古代漁法の伝承がある。
「おいさで漁法」とは、長い竹竿の先にカラスの羽
付け、先を行く2人は湖面を叩き魚をおびき寄せ、
後ろの大きな網を持つ漁師は、網を湖の中へ入れて掬う。
こうした伝統的漁法にて、稚鮎を騙して捕獲するのである。
また、鮎の「すくい魚」の伝承もある。

琵琶湖の稚鮎は、全国出荷の70〜80%を占め、岐阜県長良川や京都府宇治川などの鵜飼い業者
出荷される。四国の四万十川で養殖された稚鮎は、体長20Cm位に成長させてから再び琵琶湖の業者が
買い付けるなど、名物「鮎家のあゆ巻」
が、琵琶湖野洲町「鮎家の郷」にて賞味できる。
また、湖西志賀町北小松「松水」では「手づかみ亭」にて鮎のつかみ捕りの塩焼きが有名である。

このように、 琵琶湖の稚鮎は古代から棲息していたものと判断できる。
琵琶湖大津の瀬田川は京都の宇治川と繋がっており、宇治川では現在でも鵜飼いの伝統がある。

「隋書」列傳東夷俀國条で言う「
邪靡堆」に鵜飼い漁法があったことを記載しているので、古代の
琵琶湖西・高島郡高島町の鵜川
(写真169)辺りに於いても鵜飼い漁法があったのでは、と推察する。

(写真169
「鵜川」
滋賀県
高島郡高島町
琵琶湖西

敏達天皇こと淳中倉太珠敷天皇と豊御食炊屋姫尊こと推古天皇との四女・鸕茲+鳥(うもり)守皇女が
「日本書紀」巻20に登場している。
鸕茲+鳥守とは、奇妙な名前であり琵琶湖「野洲近江王朝」との繋がりが
ある様に思う。

原文H『又至竹斯國、又東至秦王國』
訳H「竹斯國」筑紫国(北九州)から「又東至」東大海こと日本海の「秦王國」
ハタ・幡・秦こと、祖・邪馬國の臺王に至る。』と、解釈する。
王国
」とは出雲王国の主館「出雲大社」を
言うのだろう。
雲国こと秦王国は、中国や朝鮮との行政府としての機関とされ邪靡堆俀王国首都で
あり皇居に相当する。と考えられる。


原文I『其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。』
I『「其人」秦王國の人々の風俗・言葉が華夏中華・中夏の人と同じであったので夷州台湾の
人なのか?
「疑不能明也」よく分らない。』
との意
※隋・煬帝は大業七年(西暦611年)に夷州の地台湾の綏陽縣に始招尉を派遣している。

此処で、何故?秦王國の人達が「華夏」中国と風俗が同じであったのだろうか。
邪靡堆「野洲近江王朝」近隣、湖東
の愛知(えち)郡「秦荘」(はたしょう)には、渡来系氏族の
依知秦公氏や、滋賀郡を本拠地としていた志賀漢人一族が近江国琵琶湖辺の全域に分布していたから
である。
先進国と言える
「華夏」中国の文化風俗を、当時の邪靡堆(やまつ)山津見人達は、積極的にその風俗
を吸収していたからと判断できる。丁度、明治黎明期の文明開化時代に、欧州の服装や英語などの
文化を競って模倣した、日本人の風潮を見れば明らかである。
今日では欧米音楽と服装そして清涼飲料水やフライドチキン・ハンバーグなど日本人は盲目的に欧米文化
を吸収しているのとよく似ており、この時代に於いても同じ風潮であったものと推察できる。

だから、
邪靡堆野洲近江王朝」から帰郷の山津見人こと秦国人たちは、その文化や服装を故郷の
秦国
に伝播させたものと考えられる。近江国輩出の小野妹子(遣隋使)・小野篁(漢詩人)・小野道風
(能書家)・中江藤樹(日本の陽明学の開祖)などは、中国文化の先駆者といえる。秦氏は、京都盆地の
古代豪族として、賀茂・出雲・小野・栗田・八坂・中臣・宇治・茨田・土師など各氏と共に勢力をもっていた。

原文J『又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸
訳J『「又經十餘國」余国を経て「海岸」に到達した。』十餘國とは出雲・秦王國から数えると
@隠岐国A伯耆国B因幡国C但馬国D丹波国E若狭国F吉備国G美作国H播磨国I摂津国J和泉国
K河内国L
山代国など13ヶ国が該当。此処までの条文は「竹島」から「秦王國」そして近江国琵琶湖北
「海岸」までの表記と思われる

※「海岸」とは、淡海こと近江国の琵琶湖北部を指しているものと比定する。
(写真170)

そして「自竹斯國以東、皆附庸於」とは、筑紫国北九州)「自」から東の富士山までの諸国を指している。
【日本海域山陰北陸諸国】長門・石見・隠岐・伯耆・因幡・若狭・越・飛騨・美濃。
【瀬戸内海諸国】周防・安芸・吉備・播磨。伊豫・土佐・讃岐・阿波。
【太平洋海域諸国】紀伊・大和・伊賀・尾張・遠江。そして、奴國こと信濃国までの凡そ22ヵ国が、
都・邪靡堆「皆附庸於」皆、属国と表記している。

(写真170
琵琶湖北岸
西近江街道(敦賀〜琵琶湖)
161号線海津峠より

原文K王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。』
訳K『「王遣小徳阿輩臺」俀国阿毎遣使である邪靡堆「野洲近江王朝」の小徳(官位)阿輩臺
アペタイ)
数百人を従え、海岸(琵琶湖北部)にて儀仗
(歓迎儀式の楽隊)を設け、鼓(タイコ)
角(牛の角笛・角号)を鳴らして、隋答礼使の裴世清たちを迎えてくれた。

『北史』の裴世清隋書の裴とは同一人。

原文L『後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。
訳L『日後に、また邪靡堆野洲近江王からの遣使・大禮(官位名)哥多が、二百餘の
騎馬隊を
従えて裴世清達を「郊勞」
の為、案内した。
郊勞」とは、邪靡堆郊外現在の滋賀県高月町「北近江温泉」辺りで慰労のため休息をとったのでは
と推察する。
ここまでの条文は、俀国の都である邪靡堆到着後様子を表記している。
哥」の音は「カ」であり「兄」の意。
日後とは、邪靡堆「野洲近江王朝」阿毎王が、隋国答礼使の裴世清たちに対する政治的
な対処方法の会議と、接待の準備期間と思われる。

また、この十日の間に裴世清
邪靡堆の近隣諸国を巡察した様に窺える。

原文M既至彼都其王與清相見、大悦、』
訳M「既」すでに、大任を済ませた裴世清は「至彼都」阿毎王・ 阿輩雞彌・多利思こと用明天皇
(橘豊日天皇・池邊天皇
館・離宮志賀穂宮」至る。
「其王」阿毎王・阿輩雞彌・多利思比孤こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇「清」裴世清は
相見
会見して「大悦」大いに悦ぶ。
との意。

原文N『我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。
訳N『「我夷人」国の我々は、夷(倭・委)人であり僻在海隅辺鄙(へんぴ)海隅の小さい島
)に住んでおり「禮義
礼儀を不聞知らない
ため「境内」邪靡堆都内「是以稽留」滞留
してもらい「不即相見」直ぐには会見出来なかった。』との解釈。
即ち、の阿毎王・阿輩雞彌多利思比孤こと用明天皇橘豊日天皇池邊天皇)は、礼儀作法や
隋国の風習を、よく理解してから会見した方が良いと思ったので、裴世清たちを10日間も待たせた。
と、弁解している。

因みに、中国の成語に『
郷僻壌』がある。その意は『私の生活する郷は未開で貧しく辺鄙(へんぴ)
な所です。』と、自分のことを謙遜する意とされている。
阿毎王・阿輩雞彌多利思比孤・用明天皇橘豊日天皇・池邊天皇)は、隋国煬帝に対して
『我国はひ弱な未開国です』と、謙遜していた様にも解釈できる。


原文O『今故清道飾館以待』
訳O大変失礼致しましたが「今故」それから「道」を清掃し「館」を装飾して、お待致しておりました。』との意。

原文P大使聞大國惟新之化。』
訳P
国の阿毎王が「大使」遣隋使・小野妹子からかっていたのだが大國」隋国の「惟新之」
国政維新
政策「之」の「化
実行方法を知りたい。
との意。

(かって)の文字は『曽』の異体文字と判断する。


原文Q清答曰『皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。』
訳Q裴世清が言う『煬帝には二儀(仁・徳)があり「澤流四海広大な範囲で「以王慕化」人民が恩恵
を受けています。

「故」それから「遣行人」私(裴世清)が日本まで派遣され「此宣諭」煬帝の思惟伝達に来ました
との意。

原文R既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。
訳R『「既」すでに清」裴世清を「就館館に案内をした。「其後」その後清」裴世清は「遣人
部下の者を派遣して「
謂其王阿毎王こと用明天皇橘豊日天皇・池邊天皇に謂う。
「朝命」煬帝からの使命が「既達」達成致しましたので「請即」直ぐ「戒塗警備を解除して下さい。
と言った。


原文S於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。
訳S『それから「以遣清」答礼使・裴世清のために「於是設宴享」阿毎王こと用明天皇
橘豊日天皇・池邊天皇
、送行
答謝
宴会を設けた。
「復令」裴世清は、煬帝から阿毎王こと用明天皇橘豊日天皇・池邊天皇届けた物の受取書をもらい
「貢方物」お土産を
戴いた「使者」小野妹子は「裴世清と一緒に、帰国の随行する
「此後」その後「遂絶。」だ
んだんと交流が中断した。
との解釈。
※条文の漢文字『經』『』『』『』の意は「中国大辞典」から転載。
発行所 株式会社「国書刊行会」

【九里半街道と北国街道・朝鮮人街道】
こで不詳なのは、出雲・秦王国からの都・邪靡堆までの交通経路である。
二百餘の騎馬隊を先導すると言うことは、陸路を選んだものと判断する。
その、最短距離のに、日本海側の附属諸国を経由して若狭国に入り、小浜からの九里半街道のルートがある。

(写真171)
朝鮮人街道標
近江八幡市
近江商人発祥の地

もう一つは、敦賀国から北国街道・朝鮮人街道からのルートがある。(写真171)隋国答礼使の裴世清
たちは、
二百餘の騎馬隊に護衛され、琵琶湖周囲の景観を『隋書』原文『土地膏腴、水多陸少。
土地(地形)は
「膏腴」女性の体線のように豊かで高い山並みである。と、
琵琶湖周囲印象を表記
した様に思われる

私も実際に琵琶湖を一周して見たが、正に土地膏腴、水多陸少。の情景にピッタリであった。

東には、三周ヶ岳
(1292m金糞山(1271m)伊吹山(1317m)霊仙山(1094m)御池岳(1241m)
雨乞山(1238m)と、千m超の山並みが続く。
西は、三国山(876m)三重嶽(974m)
阿弥陀山(453m)武奈ヶ岳(1214m)蓬莱山(1174m)
鞍馬(570m)比叡(848m)など、千m未満の山並みも比較的多い。

「隋書」列傳東夷俀國の条文『地勢東高西下と、記載があるように、俀國の地勢と同様に解釈
したい処である。
この琵琶湖周囲の景観を、後に「近江八景」と称されたのだろう。
琵琶湖は、淡海(おうみ)と言われていた様に、裴世清は『海』到着と思ったに違いない。
※資料38・丹後半島・隠岐と日本海沿岸地域を参照。

【「百済本紀」に登場裴世清
「三国史記」巻27百済本紀第5〔30〕武王の条
原文『9年(AD608年)春3月。遣使入隋朝貢。隋文林郎裴清奉使倭國。経我國南路。』
、記載がある。
『9年(AD608年)春3月。使者を隋に派遣朝貢した。隋が使者文林郎裴世清を倭国へ送り、
わが国(百済)の南路を経由した。』と解釈。
遣隋使小野妹子たち一行が、朝鮮半島南部港からの出航は、5〜6月頃と判断できる。
※【第7章・資料6「対馬暖流流路の模式図」黒潮から分岐・対馬海流は北東へ流入する】を参照。
帰路は日本海対馬海流と南西の季節風に乗って、北九州を経由してから出雲国こと秦国に上陸した
のだろう。後は東へ陸路、近江国こと國の都である「邪靡堆」に向かった様である。

(資料38)丹後半島・隠岐と日本海沿岸地域

『古代文明東漸の通路』として海人集団共通の生活文化圏。
隋国の使者
裴世清たちの通行路。現在の出雲・松江・米子・倉吉・鳥取・豊岡・丹後・
宮津・舞鶴・小浜・敦賀・高月町・彦根市・近江八幡市・大津市などを経過したものと推定。
「丹後半島歴史紀行」浦島太郎伝説探訪
著者 瀧音能之・三舟隆之 発行所 株式会社河出書房新社より
地図転載

古代島根列島は、中国大陸及び朝鮮半島そして九州と若狭を結ぶ海運の拠点として、投馬國こと隠岐国と
同様に日本海の要であった。各国の港が整備され、日本海と瀬戸内海を結ぶ環出雲となって生産・交易・
祭祀を確立させ、国の阿毎王こと用明天皇は九州・四國・中国地方と近畿などを勢力圏として掌握していた。

「隋書」列傳東夷俀國条の原文『自竹斯國以東、皆附庸於(略)』と、記載がある様に『筑紫国
(北九州諸国)か
ら「東」の諸国は、邪靡堆「野洲近江王朝」の「附庸」附属国である。』と、
明記している。※「附属」とは、上級の機関の下にあること。

臣國」こと近江国琵琶湖沿岸開発は、意宇出雲・邪馬國を祖とする邪靡堆野洲近江王朝」が、
構築していたものと判断する。

従って、夏期の渡航は、南西の季節風に乗って中国大陸及び朝鮮半島そして九州から島根列島の秦國」
こと祖・
邪馬
に至り、若狭国を経由後、琵琶湖南の邪靡堆「野洲近江王朝」に到達したものと比定する。

邪靡堆「野洲近江王朝」や、後の「大和朝廷」から、
中国大陸及び朝鮮半島への出航は「難波港」から
瀬戸内海を抜け、関門海峡(早鞆瀬戸西流に乗って渡航したものと判断する。
※秋の台風時期冬期は北西からの季節風によって、日本海が荒れる為この期間における日本海航行は、
かなり制限されると思う。
従って、隋国使者の裴世清たち一行は、日本海経由にて俀国の都・邪靡堆に渡来し、帰国は瀬戸内海
ルートを航行したと思われる。だから、俀国の勢力範囲の全貌が掌握できたのだろう。

『三國志』「魏書」東夷傳倭人条の原文『參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』
訳『倭の地を問えば、海中(日本海)の洲島の上に点在し、或いは離れ或いは連なり「周」周囲を「旋(動詞)
めぐると「
五千餘里
約2200Kmで「可」ある。と説明。
魏国時代の一里は、434.2mであり、換算すると五千余里は2171Kmである。
この「魏書」東夷傳倭人条『五千餘里』には、侏儒(スズ)國こと珠洲市(石川県)を含めた表記である。
実際に日本地図を広げて測定すると、その周囲は凡そ2200Kmある。
即ち【第1章】「女王俾彌呼・邪馬臺國連合30ヵ国名記載順次列挙の表」に掲載の国と侏儒國を併せると、
倭國の周囲
『五千餘里』約2200Kmには整合性がある。

【ニゴレ古墳出土船形埴輪】
京都府竹野郡弥栄町鳥取の集落を越した丘陵地の西側斜面に、丹後地方では珍しい、多種の形象埴輪が
出土「ニゴレ古墳」がある。
この「ニゴレ古墳」からの舟形埴輪は、舷側板を持つ準構造船の形状である。

船体の平面形が細長い紡錘形、船首(舳)と船尾(艫)は棒状に突き出て、少しそり上がってゴンドラ形に
なっている。(資料39)古代に於いて、竹野地方は日本海を往来し、中国大陸・朝鮮半島との交流があった
と判断できる。「ニゴレ古墳出土船形埴輪」のレプリカが「弥栄町中央公民館」にて見学できる。

(資料39)ニゴレ古墳出土船形埴輪(京都府竹野郡弥栄町)

「準構造船の登場」丹後半島竹野川流域ニゴレ古墳(円墳)出土
AD4世紀末〜AD5世紀初頃の製作と推定。
埴輪の寸法は全長825mm。幅17mm。高さ180mm。
実物想定の寸法は全長15m。50人〜60人乗船可能。
「丹後半島歴史紀行」浦島太郎伝説探訪
著者 瀧音能之・三舟隆之 発行所 株式会社「河出書房新社」より転載

【「新唐書」による遣唐使の航路】
原文『長安元年、其王文武立、改元曰大寳、遣朝臣眞人粟田貢方物。(略)天寳十二載、朝衡復入朝、
上元中、擢左散騎常侍、安南都護。新羅梗海道、更〇明、越州朝貢。(略)』
『「長安元年」AD701年、日本王「文武」即位、改元して「大宝」と曰う、粟田朝臣眞人を派遣して
「方物」産物を献上した。(中略)玄宗皇帝の天宝十二年(AD753年)朝衡は再び唐へ入朝した。
上元年間(AD760〜761年)に(中略)
新羅が海路を塞いだので日本の遣使は明州(逝江省県東)・
越州(逝江省紹興県)を経由し朝貢した。』と、第六次までの遣唐使が新羅道の北路を航行している。

内裏の北限とみられる遺跡を発見 「近江大津宮」遺跡の調査
・・・「京都新聞」2004年2月18日ニュースより・・・

天智天皇が造営した近江大津宮の内裏の北端が17日までに、滋賀県大津市錦織2丁目で同市教委が行っていた発掘調査で明らかになった。内裏は南北約240メートル、東西約190メートルに及ぶ規模だったと見られ、同市教委は、文献でしか分からなかった内裏の建物配置や役割を知る重要な手がかりになる、としている。近江大津宮は長く幻の都といわれていたが、南端の中央にあたる内裏南門跡が発掘された1974年以来、30年かけてようやく、全体の輪郭が浮かび上がってきた。(写真172・173・174)

今回の発掘は住宅建設に先立ち、昨年5月から4カ月かけて、近江神宮(神宮町)の南側約1800平方メートルを調査した。

写真172)
写真173)
(写真174
「近江大津宮錦織遺跡」
天智天皇が造営した
「近江大津宮」の内裏の北端
「近江大津宮」錦織遺跡
日本最初の戸籍作成。
律令国家の基礎となった。
宇佐八幡宮大津市錦織町
天智天皇の病気を治した
霊泉・金殿井がある。

その結果、天皇の住まいである内裏の内側と外側を分けていたとみられる約1メートルの段差のある地層が見つかり、上段には約1メートル四方の穴が5つあり、掘立柱を用いた建物跡と確認された。北側の下段は砂地で、河川敷だったと推定され、この場所が内裏の北端に当たる可能性が高いと判断した。

日本書紀には、近江大津宮内の建物について「内裏の佛殿の南に向でまして…(天智10年)」「天皇、西の小殿に御す(同)」などの記載がある。しかし具体的な内裏の配置などは分かっていない。

滋賀県立大の林博通助教授(日本考古学)は「近江大津宮は最初の戸籍がつくられるなど律令国家の基礎となった。内裏の規模が分かったことで、どんな建物がどこにあったのか、内部の構造の研究が進む。天智天皇がどのような政治を進めようとしたのかを知るうえで重要な手がかり」と期待している。

【志賀高穴穂宮】
邪靡堆の中心地と言える三上山・近江富士麓の対岸には「高穴穂神社」が鎮座しており、境内には
賀高穴穂宮」(滋賀県大津市坂本穴太町)がある。
賀高穴穂宮」の背後北西には比叡山。東は琵琶湖と近江富士を望む景勝地であり附近の山手
には「穴太古墳群」地帯である。「高穴穂神社」の創建年代は1616年。祭神は住吉神(上筒男神・
中筒男神・底筒男神)・事代主神・景行天皇。と、されている。「穴太古墳群」8基の古墳は、古墳時代
後期後半(AD6世紀後半)の範疇に設定している事から考えると、元祖 「志賀高穴穂宮」築造は「兵主神社」
の創建・西暦717年よりかなり古く西暦580年頃と思われる。祭神の事代主神とは、八重事代主神と

言い、大国主命と神屋楯比売神(かむやたてひめ)の子供であり、味鋤高彦根神(賀茂大御神)とは腹違い
の兄弟になる。また、事代主神は「葛城王朝」を支えた重要人物として日本書紀に登場している。

「古事記」原文『(略)次葛城王。次間人穴太部王。(はしびとノあなほべノみこ)
次三枝部穴太部王。(略)』と、記載がある。

そして『(略)多米王。又娶庶妹穴太部王生、御子。上宮厩戸豊聡耳命(うへノみやノうまやどノとよさとみみノみこと)』と
記載。厩戸豊聡耳命とは聖徳太子。穴太部王は聖徳太子の母君の間人皇后である。
「志賀高穴穂宮」に於いて、阿毎王・多利思北(比)孤・阿輩雞彌こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇
間人皇后そして聖徳太子たちは和やかで平和に暮していたのだろう。
古代の豪族
物部守屋は、穴穂部皇子の即位させることに失敗。
穴穂部皇子と共に蘇我馬子に殺されている。AD587年6月7日没。

【山代・山背・山城国】
山城国(京都)には大国主命の子である阿遅須枳高日子命こと迦毛大御神を祖とする「賀茂御祖神社」
こと「賀茂大社」が上賀茂神社と下賀茂神社に分かれて鎮座している。
賀茂川や鴨川の「賀茂・鴨」である。鴨川の河原には出雲の阿国寛文年間(AD1661年〜AD1673年)
に上京。その後、歌舞伎の劇場が立
っている。

「賀茂御祖神社」には
現在でも
山城国一ノ宮として尊崇されている。
徳川家の家紋である
三ツ葉葵「賀茂御祖神社」こと「賀茂大社」神紋二葉葵に由来する。など、特に信仰を
寄せられ多くの参拝が見られる

近江国には「賀茂御祖神社」の分社・御猟野乃社「賀茂神社」が鎮座している。
鎮座地は滋賀県近江八幡市加茂町1691番地。
(写真175)

(写真175)
「賀茂御祖神社」分社
鎮座地:滋賀県近江八幡市
加茂町1691番地。

(やしろ)とは国津神・産土(うぶすな)神・土地神を祀る廟のこと。
阿遅須枳高日子命こと迦毛の大御神は農業の神であり五穀豊饒の大神でもある。

「古事記」上巻・原文『
大國主神娶坐胸形奧津宮神多紀理毘賣命生子阿遲鉏高日子根神次妹高比賣命
亦名下光比賣命 此之阿遲鉏高日子根神者今謂迦毛大御神


訳『大國主神と胸形(宗像)奧津宮神・多紀理毘賣命子、阿遲鉏高日子根神。
次に妹の高比賣
こと別名・下光(照)姫命
阿遲鉏高日子根神を今は
迦毛大御神と謂ふぞ。』と、記載がある。


即ち、阿遲鉏高日子根神の父神は、須佐之
(天神)の(地神・日神)「出雲大社」大国主神であ
り、
母神は須佐之命男と天照大神(俾彌呼)との子、多紀理毘賣命である。
従って、山城(山代・
山背)国の「賀茂御祖神社」の祭神は高天原出雲王族となる。
迦毛加茂賀茂大御神は天照大御神
同格の最高神名でもある。

近江国】
躬臣國こと近江国(滋賀県)の琵琶湖は、県域の1/6を占める淡水湖であり、古代から倭国の要として、
東西・南北の重要な拠点であった。
この、淡海・近江国の邪靡堆からは、意宇出雲・邪馬國と同様な古墳の前方後方型周溝墓が集中している。
地名の「近江八幡市」は、意宇出雲・邪馬こと、現在の松江市八幡町と縁があるように思う。
人名にも渡来系氏族の秦氏や志賀氏が多く見られる。

また、タタラ鉄の関連の地名に、鞴
(タタラ)谷・中鞴(タタラ)多々良壱、などが存続している。


元々近江は、鉄鉱石の産地であり、伯耆国や邪馬國のタタラ鉄技術と密接な関係があったものと推定
する。

【「宋史」日本國傳に登場の聖徳太子】

「宋史」
日本國傳
資料40
「宋史」日本国伝原文資料40)
『次敏達天皇。次用明天皇、有子曰聖徳太子、年三歳、聞十人語、同時解之、七歳悟佛法于菩提寺、講聖鬘經、天雨曼陀羅華。當此土隋開皇中、遣使泛海至中國、求法華經。次崇峻天皇。次推古天皇。欽明天皇之女也。(略)』

訳『次は敏達天皇(怒那久良布刀多麻斯支天皇・渟中倉太玉敷天皇)。次は用明天皇、子は聖徳太子と言う、年3歳にして10人話を同時に聞き理解する、7歳のとき「菩提寺」にて「仏法」を「悟」習う、
「聖鬘經」を「天雨曼陀羅華」と「講」いう。
※「勝鬘院」こと「愛染堂」通称・愛染さん(大阪市天王寺区夕陽丘)に於いて、聖徳太子が、勝鬘経を講話したと言う。
「當此土」当地日本から「隋」の年号「開皇中」西暦581年から西暦600の20年間年まで「遣使」日本の遣隋使は「海」を「泛」渡って「中國」に「至」り「法華經」を求めた。
次は崇峻天皇。次は推古天皇。推古天皇こと豊御食炊屋姫尊(幼名・額田部皇女)欽明天皇の娘である。(略)』

以上の記載から言える事は「隋」文帝時代「開皇中」AD581年〜AD600年頃に、用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)こと阿毎王・多利思比孤の「子」聖徳太子は、年齢3歳にして「十人」の話を「同時」に聞いて理解した、など聖徳太子が超天才児であったことが明記されている。

「日本書紀」第21橘豊日天皇・用明天皇の条によると『用明元年(西暦586年)春正月壬子朔、(妹)の穴穂部間人皇女を立てて皇后と爲したまふ。是四の男を生れしき。其の一を戸皇子と曰す。(更の名
は豊耳聰聖徳。或いは豊聰耳法大王と名つく。或ひは法主王。)是の皇子、初め上宮に居しましき。後に斑鳩に移りたまふ。(略)
』記載されている。
穴穂部間人皇女は、多産系の皇后なので、兄・用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)こと阿毎王(多利思比孤・阿輩雞彌)と結婚した年内か、翌年には聖徳太子を出産していたものと判断できる。
従って、聖徳太子の
誕生は西暦58に比定する。
また「斑鳩宮」の創建は「上宮」建立後の事である。

ここで重要な点は、聖徳太子が13歳頃(西暦600年頃)に
、父の阿毎王(多利思比孤・阿輩雞彌)こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)が「中國」へ遣隋使を送った史実である。
遣隋使を送ったのは、聖徳太子では無く、父の用明天皇橘豊日天皇・池邊天皇)こと阿毎王・多利思比阿輩雞彌なのである。
※日本でも天子は王や天皇をいう。皇子を、天子とは言わない。

「隋書」「宋史」「新唐書」には、開皇20年(西暦600年)に、日本が始めて遣隋使を送ったとする記録がある。これ等の条文と比較すると聖徳太子の年齢は開皇20年(西暦600年)時には13歳となる。

「日本書紀」巻第22豊御食炊屋姫天皇・推古天皇の条には、推古16年(西暦608年)隋・煬帝の大業4年夏四月に、小野臣妹子(唐國号蘇因高)が、大唐の使人(隋の答礼使)裴世清の帰国に引率しているのである。
ここでは「日本書紀」に登場する小野臣妹子の記載は、中国史書と合致していが、西暦593年を推古元年とする記録は誤りであり変歪している。推古女帝が即位したのは「用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)」〜「崇峻天皇」以後の事である。西暦608年が推古16年とはならない。

西暦608年に、再び遣隋使として中国へ渡った小野臣妹子に、派遣任命したのは用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)こと阿毎王・多利思比孤・阿輩雞彌であり、用明天皇の在位は、少なく考えても西暦608年までは健在なのである。

従って、西暦608年前に、推古天皇16年などの年号表記は有り得ない。
また、小野臣妹子が、隋時代の遣使であるのに唐國号蘇因高と唐国を記載している。
隋国唐国一緒に考え中国の呼称を唐國と表記したのだろうか?。
後世の西暦720年(元正天皇の養老4年)に、この「日本書紀」を編纂撰上した、舎人親王や太安麻呂が、隋国と唐国の建立年号を認識出来なかったのだろうか・・・。
或いは、後世になってから、何物かが改竄したのだろうか?。著者には解らない。

「三国史記」巻第27百済本紀第5〔30〕武王9年(西暦608年)春3月の条にも『(略)隋が使者文林郎裴〔世〕清を倭国へ使者として送り、わが国(百済)の南路を経由した。』と、記載があるので、遣隋使小野妹子たち一行が、同年の夏頃にはの都・邪靡堆到着したと判断できる。
従って、西暦608年の隋・裴世清と遣隋使・小野臣妹子の行動は史実と考証する。

何れにしても、壬申の乱(西暦672年)頃までの日本史年号には信憑性が無い。
特に、邪靡堆「野洲近江王朝賀高穴穂宮」辺りの用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)こと阿毎王(多利思比孤・阿輩雞彌)の時代についての表記には、とても混乱する。

「日本書紀」巻第22豊御食炊屋姫天皇・推古天皇の推古26年(西暦618年)秋八月の条に
『(略)高麗使を遣して方物を貢る。因て言す。隋の煬帝、30萬の衆を興して我を攻む。(略)』と、
推古26年(西暦618年)に、隋の煬帝が30万の「衆」軍を興して「我」高句麗を「攻」撃した、記載があるのだが、この年の西暦618年に、宇文化及(乱臣)を首謀者とする禁軍(近衛兵)の蜂起にあい煬帝は殺されている。

唐の高祖・武徳が建立したのは、推古26年(西暦618年)の事である。
※この時の聖徳太子の年齢は31である。

西暦621年(推古29年)春2月22日に聖徳太子・厩戸豊聰耳皇子命が伊加留我(斑鳩宮)にて薨去。
享年34である。
「上宮聖徳法王帝説」には、西暦622年(推古30年)聖王こと聖徳太子薨逝也。と、記載がある。
著者は、聖徳太子(厩戸豊聰耳皇子命)の逝を西暦622年と比定する。 享年35である

しかし、発行所・株式会社「角川書店」の新版「日本史辞書」によると聖徳太子誕生年を敏達天皇3年こと
西暦574年設定のうえ記載している。
聖徳太子誕生の年が、中国史書や「日本書
」の表記と比較すると「日本史辞書」には13年間位の違いがあり聖徳太子の49歳薨去説には疑問がある。
「宋史」日本国伝
第四〇冊巻
478至496(傳)
元 脱脱 等撰
「中華書局」出版より転載

【「上宮聖徳法王帝説」記載の池邊天皇は用明天皇】

(資料41)
覆刻「日本古典全集」
「上宮聖徳法王帝説」  
(資料42)
覆刻「日本古典全集」
上宮聖徳法王帝説 「橘豊日天皇」
正宗 敦夫 編纂校訂
?齋 狩谷 望之證注
「扉」転載提供

発行所 株式会社現代思潮〔新〕社
「狩谷?齋全集」八
文政4年2月 狩谷 望之書
原文@転載提供

発行所 株式会社現代思潮〔新〕社

「上宮聖徳法王帝説」?齋狩谷 望之證注資料41)
原文@
『伊波禮池邊雙槻宮治天下、橘豐日天皇、娶庶妹穴穂部間人王、爲大后。
生児、厩戸豐聰耳聖コ法王、次久米王、次殖栗王、次茨田王。(略)』(資料42)

訳@『伊波礼池辺双槻宮」にて天下を治めた橘豊日天皇(池邊天皇)こと多利思比孤・用明天皇
阿毎王・阿輩雞彌
)は、「庶」は同じでが違う「妹」の穴穂部間人王(
聖徳太子の母)「娶」結婚
穴穂部間人王を皇后とする。
「生」まれた「児」男子は「戸豊聰耳聖徳法王」こと聖徳太子である。
次に久米王、次は殖栗王、次に茨田王である。(略)』と、表記されている。
原文の後補には、橘豊日天皇を『後諡曰用明天皇。』
と、記載があり、
「橘豊日天皇の(おくり)名は用明天皇という。」と、明記している。(資料43)

 (資料43)
覆刻「日本古典全集」
上宮聖徳法王帝説證注

狩谷?齋全集」八文政4年2月 狩谷 望之書
「阿毎王・用明天皇の系図」転載提供 
発行所 株式会社現代思潮〔新〕社

「新唐書」日本傳の原文には『(略)次用明、亦曰目多利思比孤、(略)』と、記載があり、
用明天皇」亦」また「多利思比孤」とも「曰」う。との表記である。

また「隋書」列傳東夷俀國条の原文には王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩との記載。
王」の姓は阿毎、「字」あざなは「多利思北孤」、「號」号は「阿輩」との表記である。

そして「上宮聖徳法王帝説證注」の原文には『池邊天皇后、穴太部人王、出於戸之時、忽産生上宮王
聖徳太子)。
』との記載。
池邊天皇」の皇后は、穴太部人王聖徳太子の母)である。と、明記されている。

従って、用明天皇は、橘豊日天皇・池邊天皇こと阿毎王・多利思比孤そして阿輩彌なのである。
阿輩雞彌(アペヒミ)は天火明(アマヒミ)命の子孫であり、意宇出雲・邪馬國と高天原・已百支國(伯耆国)の
血統を引く王族であろう。
天火明命は、山代・山城国の賀茂別雷神と異名同神とされ
ており、阿遅須枳高日子命こと迦毛大御神(一言主大神)
とも言う。祖大御神は
須佐之男命。

(資料44)
覆刻「日本古典全集」
上宮聖徳法王帝説證注
 「聖王庶兄多米王」

(資料45)
覆刻「日本古典全集」
上宮聖徳法王帝説證注
 
「狩谷?齋全集」八
 狩谷 望之書
原文A転載提供
発行所 株式会社現
代思潮〔新〕社
「狩谷?齋全集」八
 狩谷 望之書
原文B転載提供

発行所 株式会社現代思潮〔新〕社

原文A聖王庶兄多米王、 其父池邊天皇崩後、 娶聖王母穴太部間人王。生児、佐富女王也。』

訳A『「聖王」聖徳太子こと「上宮王」と「庶」父は同じで母が違う「兄」多米王が、「其父」自分の父である
「池邊天皇」の「崩後」崩御の後に、「聖王」聖徳太子(腹違いの弟)の「母」である穴太部間人王
と「娶」結婚。
「生」れた「児」娘は「佐富女王」なり。と、驚くべき内容の表記である。
即ち、聖徳太子と腹違いの兄である多米王は、自分の父・池邊天皇こと橘豊日天皇・用明天皇皇后・
穴太部間人女王
と結婚して、娘・佐富女王を誕生させたのである。(資料4

原文B又娶宗我稲目足尼大臣女子、支多斯比売命。生児、伊波禮池邊宮治天下、橘豊日天皇。
妹、少治田宮治天下、止余美気加志支夜比売天皇。(略)』(資料4

訳B『「また宗我稲目足尼蘇我稲目宿禰大臣の女子娘と「娶」結婚。「支多斯比岐施志売命
「生児」女子を生む。
「伊波礼」磐余「池辺宮」池辺双槻宮にて「橘豊日天皇」こと池邊天皇・用明天皇(阿毎王・多利思北孤阿輩雞彌
は「天下」国家を「治」統治する。

「妹」の止余美気加志支夜比売(トヨミケかしやヒメ)天皇こと推古天皇(幼名・額田部皇女)は「少治田(ヲワリタ)宮」
にて「天下」国家を「治」統治する。(略)』
と、池邊天皇(橘豊日天皇・用明天皇)は、政治の中心を
「池辺双槻宮」にて行い、妹の推古天皇(額田部皇女)は「少治田宮」にて国家の政治を統治していた。
推古天皇の別命・等與彌気賀斯岐夜比売命こと豊御食炊屋姫尊。



意宇出雲・邪馬臺國が遷都の邪靡堆「野洲近江王朝は、西暦600年頃から西暦672年壬申の乱頃までの間、
その王都が、何回にもわたって遷都しており、京都や大阪そして奈良と、日本の政治権力は「野洲近江王朝」から
「大和朝廷」に代わっている。

「上宮聖徳法王帝説」に記載登場する王宮。
@伊波禮池邊雙槻宮A斯貴島宮B他田宮C少治田宮(東宮)
D倉橋宮E上宮
F石寸神前宮G斯帰斯麻宮H乎沙多宮
I涜宮J伊加留加宮(斑鳩)K難波長柄豊碕宮。
などが挙げられる。
「伊加留加宮」(イカルガの宮)ことJの「斑鳩宮」の築造は、聖徳太子の住んでいた「上宮」以降の事である。
また、Kの「難波長柄豊碕宮」は、西暦645年「大化の改新」後大阪の地に遷都している。

「日本書記」巻20敏達天皇。巻21用明天皇・崇峻天皇。巻22推古天皇。条に記載登場の王宮。
【敏達天皇】@相樂館A譯語田宮(幸玉宮)B檜隅宮C難波館。
【用明天皇】D池邊雙槻宮E南大殿(上宮)
F斑鳩G東宮H後宮(海石榴市宮)I水派宮。
【崇峻天皇】J穴穂部皇子の宮。
【推古天皇
K皇后豊浦宮L南大殿(上宮)M斑鳩宮N耳梨行宮O小墾田宮P阿斗の河邊宮
などが表記されている。
やはり「日本書紀」に於いてもMの「斑鳩宮」が登場するのは、Lの南大殿(上宮)以降であり、
聖徳太子の姨母・
推古天皇時代の事である。

上宮聖徳法王帝説」条に記載の墓陵
【欽明天皇】志帰嶋天皇陵・檜前坂合岡
【敏達天皇】他田天皇陵・河内志〔奈我〕原。「日本書紀」には
殯(モガリ)宮を廣瀬に起つ。
と、記載。
【用明天皇】池辺天皇・川志奈我中尾。「古事記」科長中陵。日本書紀」河内磯長陵。
【崇峻天皇】倉橋天皇陵・倉橋岡古事記倉椅岡上。科長中陵。日本書紀」倉橋岡陵。
【推古天皇少治田天皇墓・大野岡陵。或いは川内志奈我山田寸古事記科長大陵。
上宮聖徳法王聖徳太子墓・川内志奈我岡。或いは河内國石川郡。磯長陵。
【舒明天皇】飛鳥天皇陵・大和国城上郡押坂内陵。
などが表記されている。
敏達天皇から上宮聖徳法王こと聖徳太子までの王族・天皇の墓陵は、河内国こと現在の大阪府羽曳野市
藤井寺市そして南河内郡太子町に集中している。
特に、南河内郡太子町には「敏達陵古墳用明陵古墳推古陵古墳聖徳太子墓」小野妹子墓
など同族の墓陵が在り「科長神社」も鎮座している。(写真176・177・178・179・180・181・182・183・184)

「科長神社」の祭神は、級長津(しながつ)彦命・級長津姫命・科長戸部(しながとべ)命の三神を祀っており、
磯長地方の惣社的な神社である。
この「科長神社」は、先住支配者の息長氏の祖神を祀った古社であり、息長磯長は同義異字という。
従って「難波長柄豊碕宮」時代頃は、邪靡堆の勢力圏内と判断できる。

穴穂部間人王
原文C辺天皇后、穴太部間人王、出於厩戸之時、忽産生上宮王。幼少、聡敏有智。
至長大之時、一時聞八人之白言、而弁其理。
又聞一智八、故号曰厩戸豊聡八耳命。池辺天皇、其太子聖徳王、甚愛念之、令住宮南上大殿、
故号上宮王也。
上宮王師、高麗慧慈法師。(略)』

訳C『「池邊天皇」の皇后、穴太部人王聖徳太子の母は宮中を散歩中「戸」馬屋
「之時」まで歩いて来ると「忽」然と陣痛が始まり、馬屋にて「上宮王」聖徳太子を「出於産生」した。
聖徳太子は「幼少」5歳頃「聡敏有智」聡明敏速な智恵をもっていた。

「至長大之時」成長してから「一時聞八人之白言、而弁其理。」一度に8人の言うことを聞き、 
分別して弁論道理に適い答えた。
又」また「聞一」一つの問題を聞き「智八」八通りの回答をした「故」に「号」を「厩戸豊聡八耳命」と言う。
「池辺天皇」は「其」の「太子聖徳王」を「甚愛念之」心底からとても愛しており「上聖徳太子を「宮南」
宮の南
「大殿」国政(大臣の会議所)の処に「令」住む様にさせた。
「故」即ち「号」名前は「上宮王」聖徳太子「也」なり。
(資料46)
「上宮」聖徳太子の「王師」は帰化人「高麗」高句麗僧「慧慈」法師。(略)』など、聖徳太子の出産した情況や、
聖徳太子
の神童ぶりが表記されている。
また、穴太部人皇后は、
古天皇と同じく絶世の美女だった事が窺えるので、「上宮」聖徳太子の容姿も、
凛々しく秀麗であったものと推察できる。

 (資料46)
覆刻「日本古典全集」
上宮聖徳法王帝説證注
(資料47)
覆刻「日本古典全集」
上宮聖徳法王帝説證注
 
「狩谷?齋全集」八
文政4年2月 狩谷 望之書
原文C転載提供
発行所 株式会社現代思潮〔新〕社
「狩谷?齋全集」八
文政4年2月 狩谷 望之書
原文D転載提供

発行所 株式会社現代思潮〔新〕社

原文D『法興元世一年、歳次辛巳十二月、鬼前大后崩。明年正月廿二日、上宮法王、枕病弗
干食王后、仍以労疾並著於床。(略)
(資料47)
訳D法興元世一年歳次次の年辛巳十二月「鬼前大后」穴太部人皇后「」崩御(西暦620年)
明年正月廿二日「上宮法王」聖徳太子が母・穴太部人皇后崩御「明年」翌年に枕病弗」病気で寝込んだ
王后」聖徳太子の膳夫人は「干食」晩食させる仍以労疾並著於床。
聖徳太子は寝床にて、
そのままの様態
であり、病気は完癒せず。』
との場面である
西暦621年(?)聖徳太子の薨去により、意宇出雲・邪馬臺國から邪靡堆「野洲近江王朝賀高穴穂宮」
そして聖徳太子の「上宮」から「斑鳩宮」まで、新羅国・高天原・狗奴国系である邪馬臺國
末裔の本流は
衰退したことになる。
奈良県・斑鳩の地には、意宇出雲・邪馬臺國の祖神・須佐之男命を祭祀している「飽波神社」が、聖徳太子
によって創建されている。
鎮座地は奈良県安堵村大字東安堵小字本典原。
※【第6章】
飽波神社(写真39)を参照。
地名の「安堵」は「あんど」と発音するが、地元のお年寄りたちは「アト」と言う。
滋賀県琵琶湖西の安曇川の
安曇」
アドと同音である。
また、須佐之男命の婿であり、弟とも言われた後継者の大国主命( 伊古麻都比古神)を祭祀の
「往馬大社」が奈良県生駒市壱分町に鎮座地している。
「往馬大社」は本来、生駒山(標高642m)をご神体山として御祀りされた古社である。
※【第3章】往馬大社」(写真7・8)を参照。
聖徳太子時代の日本は「日本書紀」巻22豊御食炊屋姫天皇・推古天皇の条によると、日本対新羅国が
戦争状態であった。その条文訳『推古8年春2月、新羅と任那と相攻む。(略)』と『(略)推古9年
秋9月辛巳朔戊子(〇8日)、新羅の間諜者
迦摩多(カマタ)対馬に到れり。
則ち捕へて以て貢る。上野(カミツケ)に流す。(略)
と、
かなり緊迫した情況であった事が断できる。

【推古天皇】 別命・等與彌気賀斯岐夜比売命(豊御食炊屋姫尊)
『推古天皇こと豊御食炊屋姫尊(幼名は額田部皇女)は、敏達天皇こと淳中倉太珠敷天皇と、年18才
にて結婚している。そして、敏達天皇(同父異母の兄)との間に、七人の子を誕生させている。
「日本書
」によると、推古天皇の容貌が『姿色端麗』『進止軌制』と表記している事から考えると、
絶世の美女であった事が窺える。おそらく、楊貴妃と同様な麗人であったのだろうと推定する。

推古天皇の四女である、鸕〔茲+鳥〕守皇女が「日本書紀」巻20に登場記載されている。
鸕〔茲+鳥〕(うもり)とは、奇妙な漢字を使用した名前である。「隋書」列傳東夷國条にも
原文
『(略)以小環挂
鸕〔茲+鳥〕項、令入水捕魚、日得百餘頭。』
と、記載がある。


靡堆時代に於いての『鮎』は、貴重な蛋白源であっただろから、その鮎を捕獲する『鵜』は、
とても大切にされたものと推定する。
本書の表紙裏に「意宇出雲・邪馬臺國」の中心地である『神話の里』図の中に『鵜塚』がある。

鵜塚とは、珍しい塚であり、意宇出雲邪馬臺國にも鵜飼い漁法が古来より伝承されており、現在でも
『放し鵜飼い』という特徴ある方法にて鮎を捕獲している。

この「鵜塚」は、島根県の他には、長良川の岐阜県岐阜市長良大前町一丁目に供養碑がある。
また、錦川の山口県岩国市横山1丁目「紅葉谷公園」に「鵜の塚」碑があり鵜を慰霊している。


靡堆の勢力圏である、京都市大堰川こと葛野川・桂川・宇治川にも、
鵜飼い漁法が存続しており、
「鵜飼の浜」の地名がJR山陰本線「保津峡」桂川上流(西京都)にある。
従って、鸕〔茲+鳥〕守皇女の『鵜』を使用した名前の意は、意宇出雲・邪馬臺國靡堆と、何らかの
繋がりがあったように思われる。

【幼名は額田部皇女
額田部の「額田」は【第8章】「奴佳鞮は額田・新羅系の通訳高官」にて『その「伝訳・通訳」を担当していた
外来・新羅系の
高官であろう。
と、説明してきた。額田部臣(奴佳鞮)は「出雲国風土記」の大原郡少領として
名前があり、大きな勢力を持つ出雲在地の豪
族であり、邪馬國(大和国)現在の奈良県生駒郡平城村の
「額田」と同一神と比定している。
【出雲国風土記参究】には『(略)額田部臣押島は注にあるように、従兄弟の伊去美(いこみ)と相ついで少領に
なっているから、勝部臣と並ぶ豪族であったと想像される。そして屋裏郷の条に述べたように、額田部羊
(ひつじ)
額田部宇麻呂等は、今の大東町加多神社辺に住んでいたらしいから、(略)』と、記載が
ある。
また『額田部臣押島と、伊支馬・伊去美(
大国主命)とは従兄弟なり。』と、ある。
伊支馬(大国主命)とは【第3章】にて説明の「魏書」東夷傳倭人の条に邪馬臺國俾彌呼の高官として
登場している。
従って、額田部皇女こと推古天皇は新羅国系渡来人の末裔であろうと判断できる。
祖父の継体天皇は、躬臣國こと近江国高嶋郷三尾野にて誕生。後の邪靡堆出身となる。
御年
82歳で山城国余玉穂宮(いわれたまほのみや)にて崩御という。

写真176
「聖徳太子御廟所」磯長墓
写真177
浄土堂」
写真178
「聖霊堂」
太子堂
河内国上之太子磯長山
「叡福寺」石川寺・磯長寺。
号は太子寺・御廟寺・聖霊院。
「三骨一廟」として
生母・穴穂部人皇后
妃・膳部大郎女が葬られている。
所在地:大阪府南河内郡磯長村
「聖徳太御廟所」東隣
慶長2年(AD1597年)に再建
三聖の御本地佛として
聖徳太子。

生母・穴穂部人皇后。
妃・膳部大郎女の三尊がある。
所在地:大阪府南河内郡磯長村
天正2年(AD1574年)に
織田信長の本願寺
攻撃時に兵火
慶長8年(AD1603年)に再復。
聖徳太子16歳植髪等身像
(約154Cm)
「孝養の御影」がある。
所在地:大阪府南河内郡磯長村
写真179
推古天皇磯長
山田陵
写真180
推古天皇磯長山田陵

    写真181
用明天皇河内磯長原陵

推古天皇は崇峻天皇の後
「豊浦宮」にて即位
「小墾田宮」にて壽75歳崩御。
愛息・竹田皇子(長男)陵こと
“大野の岡”に合葬と言う。
「上宮聖徳法王帝説」に記載。
豊御食炊屋姫尊(幼名:額田部皇女)は
敏達天皇こと淳中倉太珠敷天皇と、
年18才で結婚。敏達天皇・
の兄との間に七人の子を誕生。
所在地:大阪府南河内郡磯長村
(太子町山田字高塚)
用明天皇こと橘豊日天皇・池邊天皇は
阿毎王・多利思比孤阿輩であり
磐余池邊雙槻宮」にて即位。
磐余池上陵」に埋葬と言う。
所在地:大阪府南河内郡磯長村
(太子町春日字圓明土)
写真182
「科長神社」本殿
写真183
小野妹子墳墓の石段
写真184
小野妹子墳墓(円形墳墓)
祭神
〔中殿〕科長津彦命・科長津姫命。
(ニ神を級長戸辺大神と言う。)
〔左相殿〕速須佐之男命。
品陀(誉田)別尊。建御名方命。
〔右殿〕武甕槌命。經津主命。
天照皇太神。
天児屋根命。の9神。
所在地:大阪府南河内郡磯長村
(太子町大字山田3778)
「科長神社」境内の121石段。
小野妹子は華道“池の坊”元祖
阿毎王・多利思比孤こと
用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)の命にて第2回目の
遣隋使代表として登場
西暦607年渡航。
所在地:大阪府南河内郡磯長村
(太子町大字山田)
小野妹子は西暦608年に
隋国・煬帝の答礼使・裴世清を
連れ帰国する。

唐国号・蘇因高と言う。
西暦608年再度裴世清を引率
阿毎王・多利思比孤こと

用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)の命にて渡航。

近江国滋賀郡小野村出身。

【磐船神社】鎮座地・大阪府交野市私市9-19-1
祭神名 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。

御神体は、高さ12m幅12mもある船の形状をした巨岩である、磐座(いわくら)「天の磐船」である。
(写真185・186)

略記には『(略)天照国照彦天火明奇玉饒速日尊と申上げ日本書紀古事記等古典によりますと
「天孫降臨に先だち(中略)天磐船に乗り河内国川上哮ヶ峰(イカルガみね)に天降りました。と述べてあります。
(中略)その後時代を経て神武東征の節祭神の子孫は時の鳥見(トミ)の酋長(シュウチョウ)長髓(すね)彦を
(チュ)し神武天皇大和創業の基幹となり代々武人の神として仕へ物部の遠祖とあがめられた
のであります。(略)』と、記載がある。

解りやすく言えば『この地に「天の磐船」で降臨した天火明櫛玉饒速日命は、神武天皇より先だって
大和国を建立させた物部氏の祖神である。』となる。
即ち、大和国とは高天原・天照大神(俾彌呼)と意宇出雲・邪馬臺國・須佐之男命の子孫・天火明櫛玉
饒速日命が建立したのである。

鎮座地は、奈良県生駒市に隣接する生駒山系の北端に在り、河内国と大和国の境に位置している。
境内を流れる天野川に沿って、古代の道ができ「上つ鳥見路」と名付けられ、後世には「磐船街道」また
「割石越え」と呼ばれていた。
この「磐船街道」こと、現在の国道168号線は、枚方市と斑鳩そして熊野まで続く道として大和朝廷以前
から中国大陸の先進文化が導入されていた。

「先代旧事本紀」巻第三 天神本紀 正哉吾勝々速日天押穂耳尊より
原本『饒速日尊禀天神御祖詔。乘天磐船而天降坐於河内國河上哮峯。則遷坐大倭國鳥見白庭山。
所謂乘天磐船而翔行於大虚空。巡睨是郷而。天降坐矣。即謂虚空見日本國是歟。
饒速日尊便娶長髄彦妹御炊屋媛爲妃。令任胎矣。未及産時。饒速日尊既神損去坐矣。(以下略)』

条文中『饒速日尊便娶長髄彦妹御炊屋媛爲妃。』の意『饒速日尊こと天火明命は、土地の豪族鳥見の
長髓彦の妹・御炊屋媛を娶り妃とされ
』と、言う。「御炊屋媛」とは、推古天皇こと豊御食炊屋姫尊
幼名は額田部皇女)を「妃」にしたと言うのだろうか?。

饒速日尊とは、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊こと天火明命であり大国主命の御子である。
この天火明命の別命は葛城一言主大神こと味鉏高彦根尊また迦毛大御神を謂う。

祭神の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命は、天照国「照」(天照大神)の「彦」(日子)天火明櫛玉
饒速日命は高天原より「天の磐船」に乗って、河内国河上哮ヶ峰
(いかるがみね)に降臨。
祭祀は、天火明櫛玉饒速日命の子孫・肩野物部氏が行なっていた。と言う。

天火明櫛玉饒速日命こと「天火明命」は阿遅須枳高日子命・迦毛大御神(一言主大神)とも言い、邪馬国こと
大和国
まで勢力を拡大させ天下を治めた
様である。

※「古事記」に天之菩卑能命と名前に「菩卑」ホヒと明記しているが、元は「穂日であったもの
と判断する。ここでも、大和朝廷により「卑」の文字に変歪しているように窺える。

「天火明命」
こと迦毛大御神(葛城一言主大神)は、大和国まで勢力拡大させ天下を治めたようだ。
「伊波礼池辺双槻宮」の「伊波礼」とは「磐屋・磐余・磐座」の同義語「磐城」を表記しているものと
推定する。

写真185
「磐船神社」
写真186
「磐船神社」の「天の磐船」
「磐船神社」 祭神名
 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
大和国を建立させた物部氏の祖神
河内国と大和国の境
天野川沿岸に在る。
鎮座地:大阪府交野市私市9-19-1
御神体は
高さ12m幅12mもある
船の形状をした巨岩・磐座である。

『「天孫降臨に先だち(中略)天磐船に乗り河内国川上
哮ヶ峰(イカルガみね)に天降る。』
【略記,伝承】
「大字私市の南青嶂峨々として一峡を為せる処天の川は星田村より落ち来たりて此の間を通じ清泉有るひは緩く石を摩し或は急に岩を撃ち紆余索囘して巌石亦悉詭譎変幻を極む、謂はゆる磐船の旧跡是なり。その最大なるは高さ六丈、長さ五丈強、船形を為して中流に斗峭し上に磐船神社有りて実に此地の奇観たり。伝え曰、饒速日命の天津御祖の詔を稟け、十種の神宝を奉じて哮ヶ峰に降り給ひしとき乗じ給ひしものなり。「河内名所図会」より引用。

【磐船大神社】(平石)鎮座地 大阪府南河内郡河南町平石484番地
大阪府交野市私市に鎮座されている「磐船神社」とは別地の大阪府南河内郡河南町平石にも、
「磐船大神社」が在る。写真187・188・189)境内には「祓戸之大神」の石碑が祭祀されている。
主神 饒速日命他十柱。

祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命。「磐船神社」と同神。本殿真後ろの上部に巨岩がある。
巨石には「天磐船石」「浪石」「燈明石」などの名が付いており哮峯の山中に在る。

「磐船大神社」は祭祀の原型として「神奈備」の様式をとっており、山(哮ヶ峰)全体が御神体とされている。
巨石は、天から神が降臨される磐座であり、磐座の地は太古から信仰があった聖域となっている。
附近には高貴寺」(大阪府河南町平石)が在り、役行者により開基されたとの伝承がある。
「高貴寺」の大徳慈雲尊者が葛城神道を創唱する際、本社を根本道場として「樛宮」「栂の宮」と命名。
弘仁年間(平安時代初期)空海が『この山は香華 が多い』と、感嘆して香華の山と呼ぶようになり
「高貴寺」の寺名となった。と言う。近隣には 「金山古墳」大阪府南河内郡河南町大字芹生谷。がある。
【金山古墳】 国の史跡指定。珍しい瓢形双円墳の古墳。AD6・7世紀の渡来人系の墓と思われる。

写真187
「磐船大神社」

写真188
「磐船大神社」
写真189
太子町史跡案内図
御神体
哮ヶ峰(イカルガみね)

鎮座地
大阪府南河内郡
河南町平石484番地
祭神
天照国照彦天火明櫛玉
饒速日命

山麓に「高貴寺」が在り
空海の『香華の山』名が由来。
二上山周辺の大阪府南河内郡太子町と当麻町には、敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇聖徳太子・小野妹子墓・大津皇子墓・孝徳天皇陵・蘇我馬子塔などが集中しており、邪靡堆王族達と推定す。また「科長神社」「葛木二上神社」が鎮座。

「能義神社鎮座地 島根県安来市能義町飯梨
島根県安来市能義町飯梨川辺には「能義神社」があり、祭神は天穂日命とされている。
「能義神社」の「能義」は、意宇出雲國の四大大神こと出雲大神・熊野大神・佐太大神そして能義大神である。
島根県能義郡広瀬町市原にも磐船神社が鎮座(比太神社」摂社)している。
また、安来市岩舟町に「岩舟古墳」がある。

磐船神社(市原神社鎮座地 島根県能義郡広瀬町市原
祭神は素盞烏尊・五十猛命・稻田姫命。
「磐船神社」こと「市原神社」は、国道432号線「市原分れ」の市原川沿いを約2km登って行くと、
山中に「磐船神社」
が鎮座。祠の周りには、覆い被さる巨大磐座や巨石群また船形石があり圧倒される。
島根県能義郡広瀬町一帯は【第12章】K【たたら鉄】にて説明しているが鳥取県西部から島根県東部の
地域にはカンナ川が沢山見られ野タタラもあり、大きな仕掛けの砂鉄を溶かす「タタラ製鉄」の遺跡もある。
どじょうすくいで有名な「安来」の港は、古くからの日本鋼(ハガネ)の輸出港であった。と、いう所である。

国道432号線「市原分れ」の北方向約2kmの山中には「金屋子神社」が鎮座している事から考えると
「磐船神社」の祭神・素盞烏尊が、この地に於いてたたら鉄を伝播させ統治していた所以であろう。
現在では、この「磐船神社」こと「市原神社は「島根県神社庁」にも登録が無く、認識もされいないのだが、
「布伝
(ふで)神社」の須山宮司
が『昔一度行ったことがあるが、そこに(磐船神社)今、もう一度行けと言われても
行く事が出来ない位の険しい処である。地元の人でも知らないと思う。』と、電話にて語ってくれた。

「已百支國の範囲」現在の鳥取県伯耆大山の麓から島根県能義郡広瀬町「金屋子神社」・八束郡
東出雲町「揖夜神社」・黄泉比良(イユピラ=熱湯のある所)・伯耆国会見郡
夜見島現・弓ヶ浜など
一帯を言う。

斐伊川の上流は奥出雲である。出雲国(島根県)と伯耆国(鳥取県)との境に、船通山(1143m)
別名鳥上山鳥髪の峰がある。佐之男命が、高天原こと高麗山麓から鳥上山に天降り、八俣の大蛇
(ヤマタのオロチ)を退治したと言う出雲神話が有名である。

東出雲の「磐船神社」こと「市原神社」の祭神・須佐之男命(素盞烏尊)は、大阪府の「磐船神社」と
「磐船大神社」の祭神・天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(天火明命)祖大御神なのである。
そして、この磐船神社こと「市原神社は、邪馬臺國時代頃に於いて、東出雲国こと意宇(いう)
領域と言える。

【先代事本紀】
「先代旧事本紀」序によると、推古天皇二十八年勅により、聖徳太子が蘇我馬子と共に全十巻を撰定している。
その、第十巻「国造本紀」には、大倭国造から多ネ嶋(種子島)国造まで135ヵ國の国造由来について記録がある。
「大化の改新」以後の律令国造(1国に1人の地方神祇官)名が、江戸時代の西暦1678年(延寳6年)12月23日
に「豊受皇太神宮」權禰宣正五位下渡會神主延佳によって刊行された。

この、国造を任命した全国135ヵ国のうち、国の阿毎王・ 阿輩雞彌・多利思こと用明天皇(橘豊日天皇
池邊天皇
)の靡堆
「志賀高穴穂朝」御世(旧都)の国造が65ヵ国に及んでいる。※国司が1名含む。
會神主延佳(収蔵していた古書が2回焼失。)が刊行した江戸時代に於いて、当時(西暦650年頃)
の古代日本の勢力関係が認識できる貴重な史書と判断する。

【「志
賀高穴穂朝」御世(旧都)国造の任命國内訳】

國名         国造の任命國

近畿地方

山背

山背国造
伊賀 伊賀国造
近江 淡海国造 額田国造
丹波 丹波国司
但馬 但遅麻国造 二方国造
播磨 針間国造 針間鴨国造
紀伊 熊野国造
中部地方

志摩

嶋津国造
尾張 尾張国造
三河 参河国造
遠江 遠淡海国造
駿河 珠流河国造 廬原国造

美濃

三野後国造
斐陀国造
越前 高志国造 三国国造 角鹿国造

能登

能等国造
越中 伊彌頭国造
佐渡 佐渡国造
関東地方 相模 相武国造 師長国造
武蔵 无邪志国造

上総

須恵国造 馬来田国造 上海上国造 伊甚国造 武社国造 菊麻国造
安房 阿波国造
東北地方 常陸 新治国造 筑波国造 仲国造 久自国造 高国造
陸奥 阿尺国造
白河国造
思国造
石城国造
伊久国造
石背国造
染羽国造

浮田国造

信夫国造

中国四国地方 因幡 稲葉国造
伯耆 波伯国造
備後 吉備風治国造
安芸 阿岐国造
周防 大嶋国造
阿波 長国造
伊予 伊余国造
土佐 都佐国造
九州地方 豊前 豊国造
豊後 国前国造 比多国造
筑前 筑志国造 末羅国造 葛津国造

肥前

筑志米多国造
肥後 天草国造
合計 64ヵ国

大和朝廷の中心であった「橿原朝」御世(旧都)国造の任命國には、
@大倭国造。A葛城国造。B凡河内国造。C山城国造。D伊勢国造。E素賀国造(遠江)。
F紀伊国造(紀州)。G宇佐国造(豊前)。の8ヵ国が記載されている。

以上、「志賀高穴穂朝」御世(旧都)国造の任命國一覧表を見ると、意宇出雲・邪馬臺國時代から国の
阿毎王・阿輩雞彌・多利思こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)の
邪靡堆が日本列島の殆んどを
統治していたものと判断できる。

その後、AD663年に朝鮮半島・白村江の海戦に於いて、唐+新羅連合軍に百済+倭国連合軍が大敗北
を喫する。倭国内に於いても、AD585年に物部守屋の乱(丁未の変)とAD645年の大化の改新そして
AD672年には壬申の乱などの激動期に入り、狗奴国系物部守屋と新羅国・
邪靡堆系聖徳太子一族が
滅亡する。
その後、百済系勢力を取り込み大和朝廷が主流となる。
意宇出雲・邪馬
こと秦国と邪靡堆「野洲近江王朝」「賀高穴穂宮」
は、概ね400年間の繁栄
をもち続けてきたのだが、AD7世紀中葉より瓦解したのだろ
う。

「先代舊事本紀」延本刊記
原文『舊事本紀。今既經千餘歳而傳冩之誤不可勝言。亦有後人之所加者。予自明暦年中而來數求異本讎校。
且據古事記日本紀及其他古書。補闕文正誤字以爲家蔵之本。其後予家逢池魚之災兩回。
彼本片紙無遺。適有外弟家政所橘成冩留之本。今年以其本新冩一本。別又得古本重以之。
猶有遺漏者更待。

善本一覧之日云爾』

延寳六年十二月廿三日日
                              豊受皇太神宮權禰宣正五位下渡會神主延佳

訳『旧事本紀は、今迄千余年経、沢山間違いの箇所があります。また、後人は新内容を加入しました。
私は、明暦年中(AD1655年〜AD1658年)から異本を探しています。
それから、古事記・日本紀や他の古書です。其の古書中に誤りがあり訂正して家に収蔵の本として
保存した。其の後、私の家「逢池魚之災」火災が2回発生し、収蔵の本が焼かれました。
丁度、妻の弟による最近書いた本が「留」残っていました。今年、其の本を基礎として新しく本を
書きました。
別の古本を得て校正したいです。もし「遺漏」書き洩れたところがあれば再び校正します。
他に良い本があれば私に閲覧させて下さい。寳六年(AD1678年)6月23日』と、著者はこの
刊行にあたっては、とても謙虚に自分の本旨を述べている。

渡會(わたらい)神主の性格を考えると、とても几帳面で正確な記載をしている様に窺える。
私も、この「先代旧事本紀」第十巻「国造本紀」を何回も検討してみたが、作者の渡會延佳は、
中国文化に精通
していた人物なのであろうと思った。条文中に記載の「逢池魚之災」がそうである。

中国典訓に『城門失火乃池魚』がある。
その意は、家が火災に遭えば城郭の外溝(池)から水を汲み出すのだが、消化をする事は池の水が無く
なり魚に禍をもたらす。と言う。
即ち、水の利と魚の禍が共存しているのである。火災一つを表現する事に、哲学的道理を以って記載
するなど心が豊かである顕れであろう。

これまで意宇出雲国こと邪馬臺國の比定に関する事項を説明してきたのだが、やはり、古代日本国の
解明は『三國志』『後漢書』『晉書』『宋書』隋書』『梁書』『北史』『新唐書』『宋史』『三国史記』
などの正確な翻訳が基礎となる。
また「古事記」「日本書紀」「上宮聖徳法王帝説」
と「出雲國風土記」「播磨國風土記」「常陸國風土記」
などの、正しい解釈も重要である。私は、漢文が解らず随分と難儀した。
しかし、漢文字のもつ意味の深さと広さを、今回改めて知る事ができた。
「古事記」などに記載されている漢文字の意味が曖昧なものとは違い、中国の漢文字には一字一字に
深い意味が秘められている。

本書における漢文の和訳が不十分であることは否めない。
しかし、曲解はしていないはずである。真の史実を明確にすることが私の主旨である。
それには、古代日本のアイヌ語や古朝鮮語をもって取り掛かることが最も重要と考えた。
また、古神社の祖祭神名と
その系統を探索することが、史実を解明する手がかりになった。

そして新たな出土品の発見と未発掘の古墳などの調査が可能となれば、そこからの出土品により
「意宇出雲の邪馬臺國」がより明白に証明されると思う。

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