【第14章】邪馬臺國の遷都・邪靡堆「野洲近江王朝」と離宮「志賀高穴穂宮」
俀國の都である「邪靡堆」中心王朝の呼称を、新たに「野洲近江王朝」とする。
後世に天智天皇が造営した「近江大津宮」との混同を避ける為である。
【邪靡堆は山津】
中国史書に於ける邪馬臺國の記録を見ると、西暦266年(泰始2年)に新女王臺與の遣使・掖邪狗
等20人が、西晋に上献後、西暦600年の俀國王、姓・阿毎、號・阿輩雞彌、字・多利思北狐こと
用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)登場まで334年間に渡り、邪馬臺國に関する記録が空白である。
「倭の五王」時代と言われている西暦421年頃から西暦478年頃の記録はあるのだが、登場する
讃・珍・斎・興・武については不詳。仁徳天皇の弟に莵道稚郎子こと「宇治天皇」が見え、反正天皇の
本名が多遅比瑞歯別と言う。従って、倭の五王とは、俀國(都・邪靡堆)黎明期の国王と推察する。
また「隋書」列傳東夷俀國条の原文『自魏至于齊、梁、代與中國相通(略)』
訳『魏(AD220年)から斎(AD479年〜AD501年)梁(AD502年〜AD556年)に至り(倭国は)
代々中国と相通ず。』と、記載があるので「邪馬臺國」及び「邪靡堆」は、約400年間に渡り中国王朝と
友好関係にあったものと判断できる。
また、原文 『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』
訳『俀國の都は邪靡堆にある。「魏志」魏書東夷傳倭人条には邪馬臺と(記載)がある。』と、明記されている。
即ち、AD600年頃の俀國首都は「邪靡堆」にある。AD200年代の「邪馬臺」國(母国)は「魏書」東夷傳
倭人条に記載がある。と表記している。
女王俾彌呼の意宇出雲・邪馬臺國は、約400年の間に勢力を拡大させ、「隋書」に登場する「邪靡堆」
(やまつ・山津)琵琶湖こと淡海(おうみ)國、後世の近江国に倭国の中心地として遷都した。と言える。
そして、意宇出雲・邪馬臺國から「邪靡堆」までの約400年の間は、倭國に於いては戦争の無い平和な時代
が続いていたものと推察する。
※意宇出雲・邪馬臺國はAD200年代の倭国の都。
※遷都の淡海(近江)国の邪靡堆はAD600年代の都。
※『邪馬臺者也』の文字「者」は、副詞であり「之・乎」と同じく意味は無い。
(写真140) |
(写真141) |
「躬臣國」こと淡海・近江国 の中心地。都「邪靡堆」 中・鶴翼山(八幡山) 左・長命寺山 右・岡山 |
大津市大津港 琵琶湖南 淡海(おうみ)の近江国 琵琶湖面積670Ku |
この「隋書」列傳の「列傳」とは『多くの人の伝記を書き並べた本』であり、撰者の魏徴は西暦627年頃に編纂した
されている。従って、答礼使の文林郎・裴世清や小野妹子から倭国の情報も挿入されていると比定する。
しかし、撰者・魏徴は『邪馬臺國』の國名記載には「後漢書」を底本とした様に思われる。
答礼使の裴世清が会見した俀國阿毎王、號・阿輩雞彌、字・多利思比狐こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)
や小野妹子は、意宇出雲・邪馬臺國の一族であり末裔ともいえるので『則魏志所謂邪馬臺者也』と表記したのだろう。
邪靡堆「野洲近江王朝」は、瀬田川、宇治川、賀茂川、淀川、流域も含めての勢力圏と思われる。
現在の大阪・難波から京都(山代・山背国)間の(大道)陸上交通路が開通したのは、AD613年
(推古21年?)と言う。
【「新唐書」日本傳の多利思比孤は、用明天皇こと橘豊日天皇・池邊天皇】
「新唐書」日本傳の原文『(略)次欽明。欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達、次用明、
亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、
次皇極。(略)』
訳『(略)次は欽明天皇(AD539年〜571年)。欽明11年は「梁」王朝(AD502年〜AD556年)の
元帝「承聖元年」であるAD552年「直」まで。
次は海(敏)達天皇と次の用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)「亦」また「目多利思比孤」とも「曰」言う。
「隋開皇末」隋の文帝・開皇20年(西暦600年)「直」から「始與中國通」中国と「通」交流が「始與」まった。
次は崇峻天皇、崇峻天皇死(崩御)す。欽明天皇之孫女雄古こと推古天皇が立(即位)。次は舒明天皇、
次は皇極天皇。(略)』と、明確に西暦600年代の天皇即位を記載している。
従って「隋書」列傳東夷俀國条の記載「開皇20年」こと西暦600年の多利思北孤と「新唐書」日本傳
条「隋開皇末」こと西暦600年の多利思比孤の登場は、ぴったりと一致する。
即ち、俀國の阿毎王こと多利思比孤は、用明天皇(大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇)阿輩雞彌である。
また「日本書紀」によると、用明天皇の即位をAD585年。崩御はAD587年と在位期間は2年間との記載。
中国史書「隋書」「新唐書」との年代を比較すると「日本書紀」には、概ね21年間以上の空白がある。
著者は「隋書」と「新唐書」そして「三国史記」の年代考証を選択のうえまとめている。
これ等、邪靡堆が俀國の都である根拠は「隋書」列傳東夷俀國条に、次の通り原文に明記されている。
原文『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』
原文『自竹斯國以東、皆附庸於倭』
原文『水多陸少 』『以小環挂鸕茲+鳥項』
原文『兾聞大國惟新之化』
原文『又經十餘國、達於海岸』などが挙げられ同章後条にて説明をしている。
また、現在の京都府・大阪府・奈良県など、近畿地域に古くから鎮座されている
「神社」祭神の殆どが意宇出雲・邪馬臺國系と高天原系の大神なのである。
※資料35を参照。
【琵琶湖周辺の意宇出雲祖神を祭祀する神社】(資料35)
滋賀県 | 神社名 | 祭神(意宇出雲系) | 鎮座地 |
琵琶湖東 | 多賀大社(お多賀さん) | 伊邪那岐命・伊邪那美命 |
滋賀県犬上郡多賀町多賀604 |
阿自岐神社(西村の宮) | 味耜高彦根命(迦毛大御神)・他 | 滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 | |
桂城神社 | 少彦名命 | 滋賀県犬上郡甲良町下之郷487 | |
大嶋神社 | 大国主命 | 滋賀県近江八幡市北津田町529 | |
賀茂神社 | 祖神:味耜高彦根命・賀茂別雷命 | 滋賀県近江八幡市加茂町1691 | |
新神社 | 大物主大神(須佐之男命) | 滋賀県彦根市岡町126 | |
山田神社 | 猿田彦命 | 滋賀県彦根市宮田町120 | |
豊満神社 | 大国主命・他 | 滋賀県愛知郡愛知川町豊満392 | |
沙沙貴神社(ささき大明j神) | 少彦名命・他 | 滋賀県蒲生郡安土町常樂寺1 | |
琵琶湖南 | 大笹原神社 | 須佐之男命・櫛稲田比売命 | 滋賀県野洲郡野洲町大篠原2375 |
兵主神社(ひょうずさん) | 八千矛神(大国主命) | 滋賀県野洲郡中主町5条566 | |
御上神社 | 天之御影命 | 滋賀県野洲郡野洲町三上837 | |
勝部神社 | 天火明命・物部布津主神・他 | 滋賀県守山市勝部町339 | |
馬路石辺神社 | 素戔嗚尊・大己貴命 | 滋賀県守山市吉身町627 | |
高穴穂神社(禅納大明神社) | 事代主神・住吉神・他 | 滋賀県大津市穴太1−3−1 | |
篠津神社(牛頭天王・大梵天王) | 須佐之男命(素戔嗚尊) | 滋賀県大津市中庄1-14-24 | |
長等神社 | 建速須佐之男大神・大山咋命 | 滋賀県大津市三井寺町4-1 | |
小椋神社 | 猿田彦命・他 | 滋賀県大津市仰木町4737 | |
老杉神社 | 須佐之男命・稲田姫命・ 八王子命(五十猛命) |
滋賀県草津市下笠町1194 | |
伊岐志呂神社 | 大己貴命(大国主命) | 滋賀県草津市片岡町245 | |
大宝神社 | 須佐之男命・櫛稲田比売命・他 | 滋賀県栗太郡栗東町綣1004 | |
八坂神社(牛頭天王社・嵯峨大宮社) | 須佐之男命(素戔嗚尊)・他 | 滋賀県甲賀郡水口町嵯峨 | |
飯道神社 | 須佐之男命(素戔嗚尊) | 滋賀県甲賀郡信樂町宮町 | |
新宮神社(新宮さん) | 素戔嗚尊・稲田姫命・大山津見神 | 滋賀県甲賀郡信樂町長野 | |
大鳥神社 | 須佐之男命(素戔嗚尊) | 滋賀県甲賀郡甲賀町鳥居野782 | |
油日神社 | 猿田彦命 | 滋賀県甲賀郡甲賀町油日1042 | |
加茂神社 | 天津彦火瓊々杵命(邇邇芸能命・ 天津日高彦穂穂出見尊(山幸彦) |
滋賀県甲賀郡土山町青土1049 | |
琵琶湖北 | 山津照神社(青木さん) | 国常立尊 | 滋賀県坂田郡近江町能登瀬509 |
石作神社 | 天火明命 | 滋賀県伊香郡木之本町千田 | |
意富布良神社(田神の宮さん) | 素戔嗚尊・大穴牟遅命・猿田彦命 | 滋賀県伊香郡木之本町木之本488 | |
与志漏神社 | 須佐之男命(素戔嗚尊) | 滋賀県伊香郡木之本町古橋1102 | |
上坂神社(上坂田宮) | 須佐之男命(素戔嗚尊) | 滋賀県長浜市東上坂町1302 | |
琵琶湖西 | 天皇神社 | 須佐之男命(素戔嗚尊) | 滋賀県滋賀郡滋賀町大字和邇中 |
大荒比古神社・鞆結神社 | 大己貴命(大国主命) | 滋賀県高島郡マキノ町浦627 | |
白鬚神社(明神さん) | 猿田彦命 | 滋賀県高島郡高島町鵜川215 | |
志呂志神社 | 牛頭天王(素戔鳴尊)・鴨祖神 | 滋賀県高島郡高島町鴨 | |
田中神社(天王さま) | 建速素戔嗚尊・櫛稲田比売命 | 滋賀県高島郡安曇川町田中字山崎 | |
箕嶋神社 | 大山積命、亊代主神 | 滋賀県高島郡安曇川町三尾里 | |
日置神社 | 素戔鳴尊・稲田姫命・ 大國主命・日置宿禰 |
滋賀県高島郡今津町酒波 |
以上、主な「社」を検索した結果、伊邪那岐命・伊邪那美命、須佐之男命(素戔嗚尊)、櫛稲田比売命、
大己貴命(大国主命)少彦名命、猿田彦命、天之御影命、など、そして、迦毛大御神である味耜高彦根命
と俀國王・阿輩雞彌(火君)の祖神・天火明命などが都・邪靡堆の近江国琵琶湖岸全域に渡って祭祀されている。
従って、都・邪靡堆の近江国に於いて祭祀されている大半の大神は、意宇出雲・邪馬臺國の大神でもあり
「隋書」列傳東夷俀國条の原文 『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』に合致する。
【躬臣クオミ國は近江オウミ国】
俀國の都「邪靡堆」は、原名「躬臣國」こと淡海国・近江国であり(写真140・141)三上山(近江富士)麓・
野洲川流域(写真142・143・144)の滋賀県野洲郡中主町・野洲町・守山市あたりが「野洲近江王朝」の
中心地として繁栄していたものと思う。
※躬臣國とは「魏書」東夷傳倭人の条「邪馬臺國」連合30ヵ国名に記載があり、26番目に列記登場して
いる後の「近江国」である。
(写真142) | (写真143) | (写真144) |
三上山(近江富士)麓 大津能登川長浜線 「近江戦国の道」より撮影 (滋賀県道2号線) |
野洲川の流域 日本最大の湖成三角州 古代名「八洲川」が 「野洲川」に転訛。 |
「銅鐸博物館」内 弥生時代の復元集落 住所:滋賀県野洲郡 野洲町大字辻町 |
俀國の阿毎王(字)多利思比狐こと用明天皇(橘豊日天皇・池邊天皇)・阿輩雞彌と阿毎王妃の雞彌こと
穴太部間人皇后そして聖徳太子の一族は、現在の滋賀県大津市穴太(あのう)に離宮「志賀高穴穂宮」
を築造のうえ居住していたものと推定する。
この地の「高穴穂神社」境内(写真145・146)には「志賀高穴穂宮」址の史蹟がある。(写真147)
実際に「志賀高穴穂宮」址を探訪したのは2004年12月8日のこと。
「志賀高穴穂宮」址の現在地周辺を見て思ったのだが、その敷地は1町歩(3000坪・約9900u)
にも満た無い形状と思ったが、古代「邪靡堆」時代に於いては比叡山東部も含めて、広大な敷地
であった様に思われる。その理由は「穴太野添古墳群」一帯を見ると明らかである。
(写真145) | (写真146) | (写真147) |
「高穴穂神社」 別命「禅納大明神社」 鎮座地:滋賀県大津市 穴太1−3−1 |
「高穴穂神社」 祭神 景行天皇・住吉神 事代主神 |
「志賀高穴穂宮」址 邪靡堆の阿毎王 多利思比狐こと用明天皇 の離宮 |
「志高穴穂宮」址から眺める東方向の琵琶湖と三上山・近江富士は絶景である。
阿毎王・多利思比孤こと用明天皇・阿輩雞彌(大兄皇子・橘豊日天皇・池邊天皇)と、阿毎王妃
の雞彌こと穴太部間人皇后そして聖徳太子達は、毎朝の様に三上山(近江富士)から昇る朝日に
向かい参拝していたのだろう・・・。
「隋書」列傳東夷俀國条の原文には『無城郭』と、記載がある。
その王宮は「城郭」の規模では無い。大きな都では無い。との意。
即ち『無城郭』とは「離宮」もしくは「別荘」的な居城を表記しているのである。
阿毎王・多利思比孤こと用明天皇(